2019年3月30日 桑名城跡 (2020-02-05)

2019年3月30日 桑名城跡

 

皆さん知っていましたか?桑名城址にあの本多平八郎忠勝像があったことを、やはり来てみなければわかりません。是非とも現地に行きましょう。登城しましょう。

NHK大河ドラマで、藤岡弘演じる本多平八郎は好演でした。役柄は真田信繁(幸村)の兄:真田信之の妻:稲(吉田羊)の父として出ていました。そのイメージは良かったのですが、一般的なイメージは、徳川四天王・徳川三傑としての本多平八郎忠勝です。

ウィキペディアの力を借りて書き進みますが、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭と本多平八」と歌われる武功を残しました。本多忠勝(1548年-1610年)・榊原康政(1548年-1606年)井伊直正(1561年-1602年)を徳川三傑と呼びますが、これに酒井忠次(1527年-1598年)を加えて徳川四天王になるのですが、誰が譜代筆頭かというと本多忠勝だと私は思います。四天王のうち、やはり酒井忠次は三傑に比べて一時代前のひと、忠勝、康政と二十歳以上違いますし、直正とは34歳ですから、親子ほど年が離れていますので活躍した時代が違います。

忠勝と康政は同い年と言われていますが、中々、微妙なのが13歳違いの直正との関係でしょう。

遠江・三河時代、元亀3年(1572年)の二俣城の戦いから天正8年(1580年)の高天神城奪還戦までの武田氏との攻防戦においては抜群の働きをしました。

また、秀吉と戦った天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いの武勇は秀吉からも東国一の勇士と賞讃されました。

しかし、天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜に榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直正の12万石)を与えられました。

ということは、豊臣氏の傘下にはいった天正14年(1586年)から、天正18年(1590年)の間に、家康の家臣の序列が変わったのかもしれませんが、私なりに考えるに、平八郎は目立つことが嫌いというか、三河武士の中で実績も実力もピカ1なのに、家臣団ナンバー1の禄高になることを嫌ったのではと考えます。子孫の為に、禄高ナンバーワンになることが、本当に良いことかどうかを考えてまあ10万石くらいの大名がふさわしいと考えたのでしょう。井伊は譜代とはいえ後から家康の配下に入ったから三河武士団に気を使わなくても良かったと思います。

 

よくドラマに出てくる平八郎は、豪傑だったり、単なる戦上手だったり、家康の信頼の厚い部下として描かれたりと一定しませんが、きっと「一緒に仕事して頼もしい奴」だと思いますので、いつの日か大河の主役なれるといいなぁと思います。