2018年5月21日 古渡城址
古渡城址は、現在、真宗大谷派名古屋別院いわゆる東別院と呼ばれており、古渡城の時は、二重の堀で囲まれていたといわれていますが、現在周りは真っ平であり、ここがお城だとすぐわかる空堀に囲まれた末森城址:現在、城山八幡宮とは様相が異なっています。このお城を築城して本拠地を古渡城に移したのは天文8年(1539年)で、それから、末森城に移るまでの(1548年)10年間が、信長の父:信秀の全盛期です。
このお城では、信長の父:織田信秀を考えて見たいと思います。
織田信秀。生誕永正8年(1511年)(永正5年説・7年説あり)死没は天文21年3月3日(1552年4月8日)40余年の生涯でした。勝幡城主で清洲三奉行の一人織田信定の長男として生まれ、大永6年4月(1526年・15歳)から7年(1527年・16歳)の6月までの間に家督を譲られて当主となっています。
天文4年(1535年)12月に『森山崩れ』が起こります。三河を統一した松平清康が、織田信秀の弟の織田信光の守る守山城を攻めました。この守山の陣の最中の12月5日(12月29日)、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られ即死し、25歳の生涯をおえました。若くして家督を譲られた清康と信秀ですが、清康は若くして斃れ、信秀は清康の死により生き残ります。尚、天文3年(1534年)には信長が誕生しています。
天文7年(1538年)ごろ、今川氏豊の居城の那古野城(名古屋市中区、のちの名古屋城)を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大しました。
その後も勢力の拡大にともなって天文8年(1539年)に古渡城(名古屋市中区)を築き居城として二つ目の経済的基盤となる熱田を支配しました。
さらに、混乱する松平氏の隙を突いて三河に侵攻し、天文9年(1540年)には安祥城を攻略し、支配下に置き長男の織田信広を置きました。松平氏は今川義元の支援を受けたが、天文11年(1542年)の第1次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利したとされますがこの戦いがあったか定かではありません。
信長の幼年時か、天文15年(1546年・信長12歳)の元服前に那古野城を譲っています。そして天文17年(1548年)に末森城(名古屋市千種区)を築いてさらに居城を移しています【勝幡城⇒那古野城(1538年)⇒古渡城(1539年)⇒末森城(1548年)】。これは、当時の戦国大名は生涯あるいは代々拠点城を動かさないことが多く、特異な戦略です。この戦略が後の信長の拠点城を清洲⇒小牧⇒岐阜⇒安土と移していく戦略のもとになっています。
信秀の古渡城のいた約10年間が、津島湊・熱田湊を支配し経済的にも軍事でも発展した時期です。1540年には第一次安城合戦により安祥城を攻撃し奪い第二次安城合戦(1545年)にも勝利し、第三次安城合戦(1549年)まで支配しました。更に天文11年(1542年)には、越前の朝倉孝景と連携し、美濃に兵を出し斎藤道山と戦い、一時大垣城を奪っています。
信秀はその頂点で、主家の大和守家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていきました。しかし信秀は終末まで守護代奉行であり、実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤、松平、今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君であった守護代家、守護家は維持したままで、尾張国内の大和守家や他の三奉行や犬山の織田信清など何度も敵対し争ったり、反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとせず、それらを抱えたまま国外の敵と戦うという限界があり、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあったと指摘され、それらの併呑や排除は信長の代に行いました。信秀側の勢力が削がれ困難の続く中、天文21年(1552年)3月3日、末森城で死去しました。
信長の天下取りの礎となった信秀ですが、信長の天下取りに一番の貢献をしたのは津島湊・熱田湊を支配したことによる経済力です。その経済力を生かした信長は、銭で雇った兵で戦う方法を生み出して天下取り一歩手前まで行きましたが、信秀が信長に伝えられなかった家族愛、一族・部下との信頼関係の構築ができずに果てたのかも知れません。