登城でござる
2020年11月28日 宇都宮城
私事ですが、1980年代に半年ほど宇都宮の住人でした。秋から冬場にかけての季節です。現場監督でしたので3階建ての裁判所の社宅を担当しました。宇都宮の冬は凄く寒く、今日の最低気温はマイナス10度でしたと朝のNHKテレビで言っていたのを覚えています。
その頃の宇都宮城は、まだ整備されていなくて登城した覚えがありません。
この日、始めて、宇都宮城址公園に行きました。本丸の一部の土塁が現存し、本丸の土塁、堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元され、宇都宮城城址公園として一般に公開されていました。綺麗に整備されたお城です。ちょっと綺麗すぎてなじめなかったお城でもあります。
宇都宮城といえば、釣天井事件でしょう。宇都宮城釣天井事件(うつのみやじょうつりてんじょうじけん)は、江戸時代の元和8年(1622年)、下野国宇都宮藩主で江戸幕府年寄りの本多正純が、宇都宮城に吊り天井を仕掛けて第2将軍徳川秀忠の暗殺を謀ったなどの嫌疑をかけられ、本多家は改易、正純は流罪となった事件です。ただし、実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、改易は別の原因によるものとされています(ウィキペデュア参照)。
家康の側近であった、本多正信・正純 父子と家康の後継者=2代将軍:秀忠の関係は現代でも微妙でしょう。先代が亡くなった後、残された先代のお気に入りの生き方には難しいものが有ります。結局、元和8年(1622年)、秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後に宇都宮城に1泊する予定であったため、正純は城の普請や御成り御殿の造営を行わせたが、4月16日に秀忠が日光へ赴くと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」という密訴があった。内容の真偽を確かめるのは後日とし、4月19日、秀忠は「御台所が病気である」との知らせが来たと称し、予定を変更して宇都宮城を通過して壬生城に宿泊し、21日に江戸城へ帰還した。
8月、出羽山形藩最上義俊の改易に際して、正純は上使として山形城受取りのため同所に赴いた。その最中に秀忠は、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策したなど、11か条の罪状嫌疑を正純へ突きつけた。伊丹康勝と高木正次が使いとして正純の下に赴き、その11か条について問うと、正純は一つ一つ明快に回答した。しかし、康勝が追加で行なった3か条については回答する琴ができなかったため、所領は召し上げ、ただし先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽由利郡に5 万5000石を与えると命じた。
謀反に身に覚えがない正純がその5万5000石を固辞したところ、逆に秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純の身柄は久保田藩主佐竹義宜に預けられ、出羽横手への流罪とされた。後に正純は1000石の捨て扶持を与えられ、寛永13年(1637年)3月、正純は73歳で秋田横手城の一角で寂しく生涯を終えたという。
結局、先代の重臣は、息子にとって使いにくいので排除されるということでしょうか?
2020年11月3日 鉢形城址
場所:埼玉県大里郡寄居町大字鉢形(武蔵国大里郡)現:鉢形城公園 日本100名城(18番)
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となり、城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。
この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8(1476)年関東管領(かんとうかんれい)であった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春(ながおかげはる)が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田泰邦(ふじたやすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充しました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐(かい)・信濃(しなの)からの侵攻への備えとして重要な役割を担っていました。
その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、永禄12(1569年)には武田信玄による攻撃を受け、天正2(1574年)には、上杉謙信が城下に火を放っている。
天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝・真田昌幸・浅野長政、徳川家康麾下本多忠勝・鳥井元忠等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城(ろうじょう)の後に、北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
歴史的にも、戦国のスター達が集まったお城ですが、今もそのスケールの大きさ・戦国のお城はこんな感じだったろうなあと思わせるお城です。
2020年11月3日 忍城(おしじょう)
場所:埼玉県行田市本17-23(武蔵国埼玉郡)現:忍城址・行田郷土博物館 続日本100名城
映画「のぼうの城」のモデル。豊臣秀吉の小田原攻めの際、石田三成の水攻めに耐え、小田原落城後に開城された城なので、難攻不落の浮き城と呼ばれるようになりました。
このお城も歴史をたどると、文明11(1479)年には、扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解して以後、成田氏が領有した。永禄2(1559)年には上杉謙信の関東遠征の際には当時の領主成田長泰も小田原城攻めの戦いに参加していたが、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。天正2(1574)年には上杉謙信に忍城を包囲され、城下に火を放たれたが持ちこたえました。天正18(1590)年の秀吉の関東平定の際には、総大将:石田三成他、大谷吉継・長束正家・真田昌幸等も加わっています。
続日本100名城や関東七名城一つにも数えられるお城ですので、城好きにとっては、一度は行ってみたいと思うお城のひとつです。
2020年7月23日 沓掛城址
場所:愛知県豊明市沓掛町東本郷11(尾張国愛知郡沓掛)現:沓掛城址公園
戦国時代に東海第一の弓取りと云われた今川義元の最後の夜を過ごした城です。
2023年の大河ドラマは家康だから、ひょっとしたら大河に出てくるかなと思っていましたが、確か城の名前と地図が出てきたような気がします。
今川義元というキャラクターは、ドラマで良くも悪くも描かれます。
2023年の大河ドラマ「どうする家康」では、野村萬斎が演じていましたが、家康との関係性も良く、好意的に描かれていました。ただ、初回が桶狭間の合戦だったので、すぐに討ち取られてしまいましたが、その後も回想場面で何回も出てきました。
初回で討ち取られても、いい役者さんを配役だと、それなりに回想場面で出てくるようです。
今川義元は、戦国期の今川氏を戦国大名に転身させ、駿河・遠江から三河や尾張の一部にまで領土を拡大し、戦国時代の今川氏の最盛期を築き上げました。
まさか沓掛城で泊った翌日に桶狭間で討ち取られるとは思っていなかったことでしょう。
なんとなく、今後も整備しようという感じが見られる城址公園です。
2019年12月19日 江戸城址
江戸城址とは現在の皇
居東御苑です。
皇居東御苑は、旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として、宮中行事に支障のない限り公開(無料)しています。但し、今回は平成から令和の代替わりの施設が東御苑内内にあり、制限を受けました。残念ながら天守台にも登れませんでした。
江戸城天守を再建する会の講演会をネットで見ました。木造天守再建は名古屋城で当初は2020年完成。今は2028年10月完成になっていますが、多分名古屋城の木造再建は難しいだろうなと思われます。
江戸城天守の再建を議論は進めて是非とも再建してもらいたいですが、天守が江戸城にあったのは「わずか51年」江戸時代が慶長8(1603)年から慶応3(1867)年まで265年にわたるのに対し、天守が江戸城にそびえていたのは僅か51年であり、江戸の町には天守は似合わないのでは思ってしまいます。
その51年の間に3度も建てられ
ています。最初の天守は家康が建てた慶長度天守:慶長12(1607)年、2度目の天守は2代将軍秀忠が建てた元和度天守:元和9(1623)年頃、3度目の天守は家光が建てた寛永度天守:寛永15(1638)年です。
この天守は明暦の大火:明暦3(1657)年に江戸のまちの大半を焼いた大火災により、江戸城の天守も焼け落ちてしまいましたが、万治元(1658)年に加賀前田家に命じて造られたのが現在、皇居東御苑にある天守台です。でも天守を建てるのは延期になってしましました。
天守は、お城の象徴です。天守が無くてもお城はお城です。元々、お城には柵と土盛りと空堀があり、柵の中に納屋と見張り台があれば立派なお城です。天守にこだわるのは本当の城好きではないかもしれませんが、やはり、江戸城はともかく、名古屋城天守の木造復元して欲しいなぁと思うのは私だけでしょうか?
2019年9月26日 松本城
国宝「松本城」には、4~5回来ていると思います。割と愛知県から近いし、見ごたえのあるお城ですから何回か訪れます。前回は小学校からの同級生と2017年10月に来ています。このお城の良さは、程よい大きさかなぁ?
犬山城、姫路城、松本城、彦根城、松江城の5つの国宝天守で姫路城は巨大すぎるし、犬山城は少し物足りない、彦根城はいつ行っても混雑している。松江城は遠いよなぁ。となるとやはり松本城へ行こうですね。
今回は、たまたま泊まり込みでセミナーを松本まで聞きに来て、ずうずうしくセミナー後の懇親会まで参加させていただき、ホテルで朝起きたら松本だ。松本へ来たなら松本城へ行かなければと思いやってきました。昨日遅くまで飲んでいたので体調は最悪でした。
とはいえ、松本城といえば、初代藩主が石川数正です。石川数正は注目すべき戦国武将ですが、あまりかかわったお城が少ないようですので。松本城で取り上げます。
松本藩の藩祖は、徳川家康に仕えた「三河の旗頭」の一人・石川数正である。数正は家康が今川義元の人質だった頃から仕えていた最古参の家臣で、永禄5年(1562年)の織田信長と家康との同盟締結に大きな功を挙げた人物である。しかし小牧・長久手の戦い後の天正13年(1585年)11月13日、数正は突如として家康の下から出奔し、当時家康の宿敵であった羽柴秀吉のもとへ降った。この出奔には諸説あり、未だに定説はない。
その定説について私なりの推理です。家康と数正は信頼しあっていたと思います。数正は、秀吉との交渉役として秀吉に頻繁に合っていましたので、秀吉からヘッドハンティングの誘いを受けます。その際、家康と相談したと思います。
家康は家臣団の主流から外れた数正を秀吉側へスパイとして送り込んだものと推測します。その結果、天正14年(1586年)に、秀吉は自分の妹の「旭姫(朝日姫)」を、家康の妻として嫁がせています。それでも上洛しない家康を母のなかを人質として岡崎城に送ったため、家康は上洛して臣従したと推測します。
家康は数正からの情報を元に自分を秀吉に相当高く売り込んだものと推測します。そう考えたほうが世の中、面白いですから。
2019年8月11日 上山城(かみのやまじょう)
かつて「羽州の名城」と称えられた上山城。幕命により取り壊されてから290年ぶりに郷土資料館としてよみがえりました。
天守閣からは、蔵王連峰や温泉街の風情を残す市街地の家並みを楽しむことができます。
上山城郷土史料館の案内文です。
戦国期は、伊達氏と最上氏との係争の地。
江戸時代になると上山藩が出来て、江戸初期に最上氏が改易された後は、没落した諸大名が3万石から4万石で入部し、城主を務める氏族がめまぐるしく変わるが、上山藩自体は幕末まで存続した。本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠が取り巻いていた。藤井氏時代には天守はなく、二の丸に居館が設けられていた。
金森家が転封された際に一度破却されたが、破却前は本丸に三重の天守や各所に櫓門がある近世城郭であり、月岡・天神森にそびえるその壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れ渡っていた。藤井松平家が封じられた際に上山城は再興されたが、二の丸に居館を設けた程度の城構えであり明治を迎えた。
城跡は月岡公園および月岡神社境内となり、1957年(昭和32年)4月20に市の史跡に指定された。また、1982年に二の丸跡に3層の模擬天守が建立された。模擬天守の内部は、郷土歴史資料館として利用されており、季節によって、雛人形展や鎧などの収蔵品展、刀剣展といった催しが行われている。
再建当時、実際には天守の無かった城を天守付きで再現することについて多くの論議を呼んだ。 (ウィキペディア上山城より引用)
上山城は、模擬天守です。1982年造られた 望楼型3層5階、鉄筋コンクリート造模擬。江戸時代の資料があるようです。(出羽国之内上山絵図 – 正保元年(1644年)に幕府提出の「正保城絵図」。複写が資料館にて不定期展示。)
出羽国之内上山絵図 – 「正保城絵図」には、天守がありません。歴史的に無かった天守を造ったのですね。お城好きにとっては残念ですが、致し方ありません。
建物というのはそこに建っていると存在感があるのですが、撤去してしまうと、あれあそこにどんな建物があったかなぁ?と思い出せなくなるものです。天守は無かったですが、上山城の場合、お城はここにちゃんとありましたので、その記念として天守型の郷土史料館を造ったということで納得しましょう。どうか、お城好きのみなさんも、模擬天守には暖かい目で見ることにしましょう。
2019年8月11日山形城址
山形城と云えば、最上義光でしょう。大河ドラマ「独眼竜政宗」で原田芳雄さん演ずる最上義光は強烈でした。かなりの悪役でしたが、ゾクゾクするほど残虐で、カッコイイヒール役、卑劣で凶悪な武将として、妹の子の伊達政宗をとにかく貶める役柄は強烈でした。
もうひとつ戦国武将「最上義光」の有名なエピソードは、秀吉が天下統一を果たした後です。秀吉の跡取りであった秀次が、東国一の美少女と名高かった義光の次女の駒姫を側室に出すように義光に迫り、義光は断ったものの度重なる要求に折れ、15歳になったら娘を山形から京へ嫁がせると約束。
文禄4年(1595年)、駒姫は京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、7月15日、秀次は豊臣秀吉の命により高野山で切腹させられ、そして駒姫も8月2日に他の秀次の側室達と共に、三条河原に引き立てられ11番目に処刑された。まだ実質的な側室になる前だったと言われています。
慶長5年(1600年)9月。西の関ケ原と言われた「慶長出羽合戦」の後、庄内地方を手に入れた義光は出羽山形藩57万石の大藩となりました。
家康の時代になり、家督は嫡男・義康では無く家康に近侍させていた次男・家親が継ぐことになります。嫡男・義康の廃嫡は家康の意向を受け手と言われています。義光の死後、後を継いだ家親は元和3年(1617年)に急死した。家親の子・義俊(義光の孫)が後を継いだが、後継者をめぐって内紛が発生し幕府の仲介でも解決しなかったため、家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の元和8年(1622年)に改易されてしまいました。
最上義光は、戦国武将としては成功者でしょう。しかし子孫は大名として生き残ることができませんでした。山形藩は最上家が改易になった後、徳川家譜代の鳥居家や保科家の時代には、東北地方の徳川藩屏として君臨し、この時期の所領は20万石前後の中藩になりましたが、保科家が会津に移封されると山形藩は幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が12家にわたって頻繁に入れ替わった。しかもこの時期の所領は6万石、多くても10万石程度の小藩となり、藩主も譜代大名のため在国より江戸滞在が長期化し、所領も関東に飛び地が存在していたことから藩政は不安定だったようです。
残念ながら、江戸時代の出羽山形城は幕閣の左遷地だったようです。
また、現地には「さがしています!本丸御殿や一文字櫓の写真や白の古絵図の資料を探しています。お心当たりの方は、ご連絡ください」の看板があります。山形城には元々天守閣は存在せず、本丸内に御殿がありましたが、間取り図は存在するものの建物の形を確認できる立面図等が見つかっていない為、本丸御殿御殿を復元できないということで、本丸御殿の絵図等を探していました。
2019年4月8日苗木城
この日は風が非常に強い日で、月曜日でしたので私達しか人影はなく、苗木城へいくのは、風で飛ばされそうで怖かったことを思いだします。
写真を見ていただければわかると思いますが、岩
場の山の上の天空の山城です。とてもインスタ映えするので、もっとアピールして史料館或いは苗木桜公園に道の駅を併設されると良い観光スポットなると思いました。
歴史的には、東濃に起こった遠山氏は、一時「遠山七家」が諸城に
拠って東濃地方に威を張りました。しかし江戸時代、諸候として苗木遠山氏と旗本の明知遠山氏の二家のみしか存続しませんでした。テレビや映画でおなじみの「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元は、明知遠山氏の末にあたります。
知行500石の明智遠山氏の分家の6代目の「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元と、1万石の苗木藩の遠山家とどちらが良いか?
石高だけを見ると「苗木遠山氏」ですが、内情はさにあらず、1万石の大名は大変だったようです。藩政においては幕府の相次ぐ手伝い普請や軍役などにより財政窮乏が早くから始まり、このため新田開発を行なって4286石の新田を開発しましたが、第5代藩主・遠山友由の大坂加番による出費などもあって財政の改善には至らなかった。歴代藩主は藩政維持のため、厳しい倹約令を出し、天保年間には給米全額の借り上げを行なうなどしました。
最後の藩主・遠山友禄は文久元年(1861年)に若年寄となり、さらに大坂警備も任されましたが、そのため出費がさらに重なって財政は火の車となり、友禄は五種類の藩札発行による改革を図りました。しかし、元治元年(1865年)に2度目の若年寄就任、慶応元年(1865年)に第2次長州征伐にも参
加したことによる軍費から、遂に財政は破綻しました。明治維新後、14万両あった藩の借金苗木城破却に伴う建材や武具などの売却、藩士全員
を強制的に帰農、家禄を返還させ、帰農法に基づいて政府から支給される扶持米を3年間返上させること、藩知事遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、明治4年(1871年)には5万2600両までに縮小しました。
(結局、最後はどうしたんだろう?最後の藩主:遠山友禄は子爵になっていますが、絶対に借金を返してないと思います)
等々、ウィキペディアの文章を読むと、1万石の大名なんてイヤダ!
「遠山の金さん」が良いと思うのは私だけでしょうか?
2019年4月8日 岩村城址
岩村城と言えば、悲劇のおんな城主:おつやの方ですね。
尾張国の武将・織田信定の娘として誕生。信定は信長の祖父です。といことは、おつやの方は信長にとっては叔母に当たります。東美濃遠山氏の地頭・遠山景任に嫁ぎました。遠山氏は鎌倉時代から東美濃一帯を勢力下においており、戦国期、おつやの方の夫:遠山景任は、信玄の勢力下で、美濃の斎藤家に対する為、信長と信玄の間をうまく取り持っていたものと思われます。
元亀3年(1572年)8月14日、夫・景任が、後継ぎが無いまま病死したため、甥にあたる信長から五男の御坊丸(後の織田勝長)が養嗣子として岩村城に送り込まれました。ただし、御坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が当主の座を引き継ぎ岩村城の女城主となりました。
岩村遠山氏と苗木遠山氏は、天文23年(1554年)から信玄の勢力下だったようです。弘治2年(1557年)7月13日、父の景前が亡くなり、嫡男であった景任があとを継ぎましたが、まだ若かったことから遠山七頭の中に従わぬものがあって後継者争いが起こりました。これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た景任が当主となることができたという経緯があります。
以後、東美濃においては遠山宗家と信玄との主従関係に基づく武田支配が成立し、遠山氏は武田方に人質を出していました。他方で同年、斎藤義龍が道三を長良川の戦いで破って美濃を手中に入れると、遠山氏の中では明知遠山氏の友行の明智城攻めに加わるなど、一時的に斎藤氏にも与しました。また従来の織田氏との関係も維持されており、これが台頭して濃尾に勢力を伸ばすとむしろ接近しました。時期は不明ながら、景任が織田信長の叔母のおつやの方(織田信定の娘)を娶って縁戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属するという関係を築いていきました。特に永禄年間になると、遠山氏は武田氏と織田氏に両属して、その外交関係(甲尾同盟)を仲介する存在でした。
永禄8年(1565年)に武田軍が金山城の森可成と米田城の肥田玄蕃允を攻撃した後、信長が景任の弟を遠山直兼の娘を養女として信玄の庶子武田勝頼の室とする縁組をまとめたのも、遠山氏を介した織田氏武田氏両家の連携の一環でした。
元亀元年、秋山虎繁は三河の徳川氏を攻撃する途中で遠山領へ侵入したことで上村合戦が勃発し遠山各氏に大打撃を与え、景任の後継争いの際にも秋山が武田軍を率いて遠山の国衆と協議したと考えられています。
元亀3年(1572年)8月14日、夫:遠山景任が病死して岩村遠山氏の血統が断絶したのを機会に信長は東美濃の支配権を奪う好機として、岐阜城留守居の川尻秀隆や織田信広を岩村城に派遣して占領すると、自らの子(御坊丸のちの織田勝長)を亡くなった遠山景任の養嗣子として継がせ、おつやの方を後見人としました。元亀3年(1572年)10月、東美濃の支配権が信長に奪われたことに対して、駿河国に侵攻していた信玄は、伊那郡代秋山晴近と依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の奪還を命じました。岩村城は武田勢に包囲され、城主となっていた信長の叔母のおつやの方は秋山と婚姻(元亀4年(1573年)2月下旬)するという条件で降伏し開城しました。岩村城内に居た者は以後武田氏に仕えることになりました。秋山は御坊丸を人質として甲斐に送り、岩村遠山氏は完全に消滅しました。
これって、おつやの方のせいかな?おつやの方は秋山虎繁との婚姻により、御坊丸と城兵を守ったと言えます。後に御坊丸は信長に返還されています。
武田勢に岩村城を包囲されたときに援軍を出せなかった信長のせいではないかと思います。信長には援軍を出すに出せない状況にあったようですが・・・。
信長の当時の状況は、元亀2年(1571年)は、朝倉義景が三好三人衆、浅井長政、本願寺・顕如とともに信長包囲網を形成し信長に対し抵抗を続けた時期です。勅命講和により一旦は和睦するものの、元亀3年(1572年)、義景は浅井氏、顕如に加え、甲斐守護の武田信玄も仲間に引きずり込み再び信長包囲網を形成しました。信長は西方の本願寺と三好三人衆、東方の朝倉・浅井連合軍に挟撃され、同盟者の家康も元亀3年(1572年)12月21日遠江・三方ヶ原で信玄に大敗するなどし、窮地に立たされていました。しかし12月になって義景が越前に帰国したため、信長はひとまず危機を脱しました。そして信玄の死(元亀4年(1573年)4月)により窮地を脱することができました。
織田軍は天正3年(1575年)5月21日長篠の戦で武田勝頼軍を破ると、織田信忠らが岩村城を包囲。勝頼は岩村城を救援するべく出陣しましたが、到着するより前の11月21日、岩村城は落城した(天正3年(1575年)の岩村城の戦い)。信長は虎繁らを赦免すると見せかけ、礼に来たところを捕らえ、長良川近くで磔刑にしました。その理由は、長篠城の奥平信昌が徳川家康に寝返った際、武田勝頼が奥平の妻を磔にしたので、その報復だということでした(『甲陽軍鑑』)。おつやの方もまた信長に捕らえられて逆さ磔で処刑されました。あるいは信長が裏切られた鬱憤を晴らすために自ら斬ったともいわれています。