登城でござる

2019年3月30日津城跡

  伊勢国の津は、安濃津(あのつ)と呼ばれた平安時代から伊勢国の中心地であり、津城は戦国時代初期から様々な歴史があることはこの場では無視して、江戸時代:慶長13(1608)年に伊予宇和島から移封になった藤堂高虎の話を述べたいと思います。

 主を7回も変えた猛将とも云われます。近江国出身ですから、まずは浅井長政に足軽として仕え、元亀元(1570)年の姉川の戦いに14歳で参戦して首級を取る武功を挙げ、天正元(1573)年に小谷城の戦いで浅井氏が滅びると、浅井氏の旧臣:阿閉貞征、次いで同じく磯野員昌の家臣として仕えた。やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きしなかった。その後、流浪生活の後、天正4(1576)年21歳の時に羽柴秀吉の弟:秀長に300石で仕えました。後の天下人秀吉の弟:秀長に仕えたことが単なる長躯の猪武者から高虎を築城の名人と呼ばれるほどの武将に育てたものと思われます。天正19(1591)年35歳の時、秀長死去時には2万石の大名に出世していました。その後、秀長の甥:養子の豊臣秀保に仕え、文禄4(1595)年秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が生駒親正に説得させて召還したため還俗し、5万石加増され伊予国板島(現宇和島)7万石の大名になりました。

慶長の役 慶長3(1598)年には、水軍を率いて参加し、朝鮮水軍の武将:元均率いる水軍を壊滅し、南原城の戦いと明梁海戦にも参加し、帰国後に大洲城1万石を加増され豊臣政権では最終八万石になりました。

 ⑧最終的に徳川家の大名となり、主君を七回変えた武士とされ、ある意味蔑みに言われることもあるようですが、徳川家康との相性は抜群だったのでしょう。

 慶長3(1598)年8月秀吉が死去すると、豊臣家臣団は武断派と文治派に分裂、高虎は武断派というより、徳川家康派に与します。会津征伐に従軍し、その後岐阜城を攻略、9月15日の関ケ原の戦いでは大谷吉継隊と戦い、更に脇坂安治、小川祐忠、朽木元網、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行い、東軍の勝利に貢献しました。

戦後、これらの軍功により宇和島城8万石安堵の他に新たに今治城12万石を加増され20万石の大名になりました。江戸時代になると、江戸城改築に功を挙げ、慶長13   (1608)年に伊勢安濃郡と一志郡内10万石及び伊賀国内10万石と四国今治城周辺の越智郡2万石を飛地として22万石に加増移封され、津藩初代藩主となりました。よほど、家康と相性が良かったのでしょう。徳川家の外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用されました。

慶長19(1614)年大阪冬の陣、慶長20(1615)年大坂夏の陣に徳川方として参戦、長曾我部盛親軍と八尾の戦いで対峙、激戦となり600人余りの死者を出しています。戦後、その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石加増され、27万石になっています。家康死去の後、元和3(1617)年、新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され、弟正高が下総国で拝領していた3000石を津藩領に編入し、石高 計32万3000石の大大名となりました。田丸5万石は元和5(1619)年に和歌山城に徳川頼宜が移封されると紀州藩領となり、藤堂家には替地として大和国と山城国に5万石が与えられました。

人にはその人なりの歴史があります。今は便利な時代です。藤堂高虎を知りたければ、「ウィキペディア」で調べることができます。その人なりを思うとき、どういう人生を送ってきたかを長々と綴らないと中々表現することができません。

よく、戦国時代は下克上で貧農出身者も戦で手柄さえ立てれば一国一城の主になれると言われます。多くの民はそれを信じて一国一城の主を夢見たかもしれません。しかし、それを実現したのは太閤秀吉を初め僅かな人しかいません。その僅かな人として夢を体現したのが藤堂高虎でしょう。「身長は6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている。」14歳から60年間戦って、得たものが32万3000石です。割に合うかどうかより、それしか生きられなかったのでしょう。

さて、藤堂高虎はNHK大河ドラマの主役が張れるでしょうか?

結構、面白い物語になると思うのですが、信長を初め、秀吉、家康、光秀、浅井長政、織田信澄、豊臣秀長、丹羽長秀、三男:藤堂高吉等々、戦国の殆どの有名人を登場させることができます。戦いについては、姉川の戦いから秀吉の天下人に駆け上がる戦い、朝鮮の役、関ケ原から大坂夏の陣まで、日本の戦国期の戦いを全てに関りがあるので戦闘シーンも豊富です。

良いと思うのですが、

ただ、やはり地味と言えば地味で、華が無いと言われれば華が無いので大河ドラマはちょっと無理か!

2019年3月30日神戸城跡

2019年3月30日 神戸城跡

 

 伊勢神戸城で一番に思い出すのは、織田信長の三男・神戸信孝です。伊勢(三重県)の人には失礼な話かもしれません。何故、伊勢を代表する戦国の城で信長の三男が出てくるのか?神戸氏の神戸具盛とか他にいるだろうという意見はごもっともですが、あまりいい逸話が無いようですので、信長の息子のお話をします。

信長が、伊勢を攻めたとき神戸氏には三男信孝を。その後、名門:北畠氏には次男信勝を養子に出して和議を結び実質的には御家を乗っ取り、伊勢を平定しました。

伊勢攻略以前の信長の尾張統一戦は父:信秀の死去の天文21(1552)年3月から、永禄元(1558)年までです。永禄2(1559)年2月には、上洛して室町幕府13代将軍:足利義輝に謁見し、尾張統一を報告しています。次の年、永禄3(1560)年には桶狭間の戦いで敵将今川義元を討ち取り、撃退しました。

美濃平定戦が本格化するのは、永禄4(1561)年、斎藤義龍が急死し斉藤龍興に代替わりしてからです。永禄10(1567)年に美濃斎藤龍興を伊勢国長嶋に敗走させ、美濃平定を終え、いよいよ上洛戦の始まりです。

永禄11(1568)年7月に足利義昭を岐阜城下に迎え、9月には上洛戦が始まります。10月には上洛を成し遂げ、足利義昭を第15代将軍にしました。

信長は、美濃平定と上洛戦の間の永禄10年(1567)年に、滝川一益を先方に伊勢国北部攻略を始めましたが、一度は神戸具盛に防がれ、撤退しています。

永禄11(1568)年2月、二度目の伊勢攻略の際に、信長は神戸城主:神戸具盛を懐柔するために三男の信孝を養嗣子としました。この時、永禄元(1558)年4月生まれの信孝は満10歳に満たない年齢でした。信長の本来の目標の天下布武の脇道である伊勢攻略を素早く進めるために、弟の信包を長野氏の養嗣子とし、永禄12(1569)年10月次男信雄を南伊勢の北畠家の養嗣子にして伊勢を平定しました。

何故、神戸信孝に注目するのか?本能寺の変は、天正10(1582)年6月2日に起きました。信孝が24歳の時です。若いと言われればそれまでですが、信秀が死に、信長が家督を継いだのは18歳。村木砦の戦いで今川軍を撃退したのは21歳の時です。22歳で清洲城を攻略して尾張西半分を版図にしています。 

何が云いたいかというと、あの本能寺の変の時以後に、後の天下人の秀吉に勝てる可能性があったのは24歳の信孝だけだったのです。

天正10(1582)年6月2日は、信孝が四国方面軍総大将として堺から四国へ出陣予定といわれています。

和田裕弘著「織田信長の家臣団-派閥と人間関係」によると、信長は晩年、自らは戦場に出ず七つの方面軍組織を確立しました。その方面軍とは、

第一軍 織田信忠軍 信長長男・後継者・東国管轄 本能寺の変で死去享年26歳

第二軍 神戸信孝軍 信長三男・四国方面軍総大将 本能寺の変時24歳 変から1年後尾張国野間にて天正11(1583)年5月自害享年25歳。

第三軍 柴田勝家軍 織田家宿老 北陸方面軍総大将 本能寺の変時60歳? 天正11(1583)年3月秀吉との決戦:賤ケ岳の戦いに敗れ、4月北ノ庄城にて自害。

第四軍 佐久間信盛軍 織田家宿老 本願寺攻め総司令官 天正8(1580)年 本願寺を屈服させた後、信長より譴責状を突き付けられ高野山に追放される。その後、高野山からの退去を命じられのち天正10(1582)年1月死去。この情け容赦のない処分が光秀謀反の遠因とも云われています。

第五軍 羽柴秀吉軍 中国方面軍総大将 卑賎の身から立身出世し位人臣を極めました。本能寺の変時45歳。中国大返し・山崎の戦いにより光秀を討伐。その後、天下人になり、慶長3(1598)年8月死没享年61歳。

第六軍 滝川一益軍 関東方面軍総司令官 近江国甲賀出身信長に仕える前の半生は不明。本能寺の変時57歳。上野国厩橋にあり、信長の死に乗じ、小田原城の北条軍の侵攻を受け、神流川の戦いにて初戦は勝利したが、翌日破れ、伊勢に敗走。その後、柴田勝家に与し秀吉と戦うが降伏。天正14(1586)年9月死去。享年62歳。

第七軍 明智光秀軍 近畿方面総司令官 信長中途採用組出世頭。佐久間信盛軍が解体された後、与力を与えられ近畿方面軍総司令官となる。本能寺の変11日後、天正11(1582)年6月13日山崎の戦いに破れ、落ち武者狩り負傷したため自害。

この七つの軍団、佐久間信盛は本能寺の変の時にはすでに追放、死去しているので、六つの軍団のうち、信長を討てる軍団は明智光秀軍だけ、その光秀を討てる軍団は秀吉軍と信孝軍のふたつだけでした。

 

その信孝が四国へ渡海するその日に本能寺の変が勃発し、信孝が四国攻めのために徴集した軍勢、約1万5千人が四散してしまいました。所詮寄せ集めの軍勢であり、変の情勢がもたらせると兵の大半が逃げ散ってしまい、信孝は単独で光秀と対抗できない為、四国攻めの副官だった丹羽長秀と相談し、光秀の女婿で謀反への関与が疑われていた大阪本願寺留守居の津田信済を血祭りにあげて光秀への見せしめとしました。これを見て河内の諸将は信孝を主君と認め、麾下に属しました。

信孝らは、毛利と和睦して東上してきた秀吉軍と合流し、信孝が総大将となって光秀を山崎戦いで打ち破り、父信長の複仇戦で総大将となったことから、この時点では信孝が後継者と目されました。

誤算は天正10(1582)年6月27日の「清洲会議」です。次男信雄と家督争いをしたことで織田家家督に就くことができず、美濃一国と南近江を得ただけで、家督は信長直孫の三法師でしたが、後見役は信孝になり、周囲は信孝を後継者と見ていました。

ここから、織田家簒奪に動く秀吉が、信孝新領地の美濃や南近江の諸将を調略され、烏帽子親の柴田勝家と結んで対抗したが、天正10(1582)年12月、積雪で動けない時期に、岐阜城を攻囲され、美濃国内の諸将も秀吉に寝返り、三法師、母親、娘を人質にして和議を結びました。

翌年、勝家の北近江への進軍に合わせて再び立ち上がりましたが、人質は秀吉により磔にされ、勝家が賤ケ岳で敗れ、北庄城で自害した後は、次男信雄に抵抗らしい抵抗をせずに再度降伏し、尾張国野間に送られ自害しました。

若い信孝に、軍師として助けられる人がいれば、信孝は信長の家督を受け継ぐことができたかもしれません。しかし、四国方面軍の副官:丹羽長秀も「清須会議」では秀吉側についてしまいました。このとき、長秀が勝家と共に、信孝を押していたらと思いますが、そうはなりませんでした。それが信孝の器量だったかもしれません。

2019年3月30日 桑名城跡

 

皆さん知っていましたか?桑名城址にあの本多平八郎忠勝像があったことを、やはり来てみなければわかりません。是非とも現地に行きましょう。登城しましょう。

NHK大河ドラマで、藤岡弘演じる本多平八郎は好演でした。役柄は真田信繁(幸村)の兄:真田信之の妻:稲(吉田羊)の父として出ていました。そのイメージは良かったのですが、一般的なイメージは、徳川四天王・徳川三傑としての本多平八郎忠勝です。

ウィキペディアの力を借りて書き進みますが、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭と本多平八」と歌われる武功を残しました。本多忠勝(1548年-1610年)・榊原康政(1548年-1606年)井伊直正(1561年-1602年)を徳川三傑と呼びますが、これに酒井忠次(1527年-1598年)を加えて徳川四天王になるのですが、誰が譜代筆頭かというと本多忠勝だと私は思います。四天王のうち、やはり酒井忠次は三傑に比べて一時代前のひと、忠勝、康政と二十歳以上違いますし、直正とは34歳ですから、親子ほど年が離れていますので活躍した時代が違います。

忠勝と康政は同い年と言われていますが、中々、微妙なのが13歳違いの直正との関係でしょう。

遠江・三河時代、元亀3年(1572年)の二俣城の戦いから天正8年(1580年)の高天神城奪還戦までの武田氏との攻防戦においては抜群の働きをしました。

また、秀吉と戦った天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いの武勇は秀吉からも東国一の勇士と賞讃されました。

しかし、天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜に榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直正の12万石)を与えられました。

ということは、豊臣氏の傘下にはいった天正14年(1586年)から、天正18年(1590年)の間に、家康の家臣の序列が変わったのかもしれませんが、私なりに考えるに、平八郎は目立つことが嫌いというか、三河武士の中で実績も実力もピカ1なのに、家臣団ナンバー1の禄高になることを嫌ったのではと考えます。子孫の為に、禄高ナンバーワンになることが、本当に良いことかどうかを考えてまあ10万石くらいの大名がふさわしいと考えたのでしょう。井伊は譜代とはいえ後から家康の配下に入ったから三河武士団に気を使わなくても良かったと思います。

 

よくドラマに出てくる平八郎は、豪傑だったり、単なる戦上手だったり、家康の信頼の厚い部下として描かれたりと一定しませんが、きっと「一緒に仕事して頼もしい奴」だと思いますので、いつの日か大河の主役なれるといいなぁと思います。

ひさしぶりの「登城でござる」への投稿です。

毎月、お城見学に行きたいと思っていますが、なかなか腰が上がりません。

しかし、まだ未投稿のお城が10個あります。追々、文章をまとめて投稿したいと思います。

2019年2月24日 大和郡山城址

 

 奈良の國の戦国期の有名な城址は多くありません。日本100名城に選ばれたのが高取城ひとつで、続日本100名城に選ばれたのが大和郡山城と宇陀松山城のふたつだけです。

ちなみに世界遺産とされているものは、1993年12月登録の「法隆寺地域の仏教建造物」として①法隆寺②法起寺。1998年12月登録の「古都奈良の文化財」として③東大寺④春日大社⑤興福寺⑥元興寺⑦薬師寺、春日山原始林、平城宮跡。2004年7月登録の「紀伊山地の霊場と参詣道」〈霊場「吉野・大峯」〉吉野山⑧吉野水分神社⑨金峯山寺➉吉水神社⑪大峯山寺〈「参詣道」〉大峯奥駈道(⑫玉置神社含む)、熊野参詣道小辺路と神社仏閣が12もあります。

 奈良の國の100名城、続100名城に選ばれた他の二つの城はまだ訪れたことがありませんので良く知りませんが、大和郡山城は戦国時代の物語にはよく出てきます。洞ヶ峠の筒井順慶も有名ですが、大和郡山城といえば、大和大納言・豊臣秀長です。秀長は天下人:秀吉の異父弟。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍し、天下統一に貢献しました。

 堺屋太一氏の小説で紹介されるまでは、あまり世間には知られていませんでした。太閤秀吉という人物があまりにも巨大でその陰に隠れていたと言えるでしょうが、秀吉が黒田官兵衛に話した言葉に「官兵衛を弟:秀長と同じように思っている。」と言われて、官兵衛は感激して秀吉に忠誠を誓ったという逸話があります。官兵衛もたいしたものですが、そういう風に言われて官兵衛が感激する秀長も、秀吉が頼りにする素晴らしい人間だったと思える逸話です。このお話には更に戦国の最強軍師:竹中半兵衛が登場し、自分の後継者たる黒田官兵衛に忠告したそうですが、兄弟の情は他人とは違うのだから、あまり秀吉の弟と同じように思っていると言われても真に受けないようにした方が良いとの忠告を受けたそうです。でも官兵衛はわざと感激したのかもしれません。まあ、それだけ秀長が素晴らしかったと解釈したいと思います。

 大和郡山城は、秀長の時代、大和・紀伊・和泉100万石の中心地です。秀長のもう少し長生きしたら、もっと発展したでしょう。ちょうど名古屋・和歌山・水戸のように・。しかし、秀長には子供がいませんでした。豊臣政権は、秀長が家康より長生きだったら、続いたかもしれません。また、唐入りもなかったかも・・・。歴史のIFは禁物です。

 それより、稀代の天才:秀吉のおかげで、ひょうとしたら尾張中村の百姓で一生を終えたかもしれない秀長が大和郡山城主として100万石の太守になったことを評価すべきかもしれません。

ということで、あまりWikipediaに頼らずに書いてみました。

今までの文章に参照:Wikipediaと書くべきだったと思っています。これからはそうしますのでよろしくお願いします。

 

2019年1月14日 高槻城址

 

 戦国時代、最もかっこよく生き残った武将:高山右近と勝手に決めつけていますが、それを本人に聞いてみれば、人生はそんな尺度で決めつけるものではないと言われそうな気がします。

 高山右近は、「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」と、高槻の街を上げて宣伝し、良いイメージしかありませんが、高槻城主になった経緯は壮烈なものだったようです。

元々、高槻城は足利義昭の直臣:和田惟政が摂津三守護の一人として支配しており、高山父子は和田惟政に仕えていましたが、元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとっています。村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼしました。こうして摂津国は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となりました。

高槻城は、惟政の死後、子の惟長が城主となり、叔父の和田惟増が補佐をしていましたが、何を思ったのか、この叔父を殺害してしまいました。これにより高山家が主だった相談役となりましたが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言しました。高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いたので、高山友照はこの事を村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えました。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出し、高山父子は呼び出しが罠だと聞かされていたので、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになりました。夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗になったが、右近は火が消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせました。騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまいました。およそ助かりそうにない傷でしたが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになったようです。

高山右近の若かれし頃にこうゆう歴史があったことを初めて知りました。その後、高山父子は荒木村重の支配下に入り、信長から村重の与力として認められ晴れて高槻城主になることができました。父の友照は50歳を過ぎると高槻城主を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践し、教会建築や不況に熱心だったために領内の神社仏閣を破壊し、神官僧侶を迫害したようです。

そして、天正6年(1578年)10月末、荒木村重の反乱「有岡城の戦い」を向かえます。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしましたが失敗しました。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガティノ神父に助言を求めたところ、神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ。」と助言しました。

高槻城は要衝の地であったため、信長は右近を味方につけるべく機内の宣教師達を説得に向かわせました。右近は織田方につく意思はあったものの、村重の下にある人質達の処刑を恐れ、判断し兼ねていました。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つとなっていました。懊悩した右近は、信長に領地を返上することにより、織田との戦を回避し、尚且つ村重に対しての出兵も回避し人質処刑の口実も与えないという打開策に思い至ります。右近は紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました。村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしませんでしたが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返った)。この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、摂津国芥川郡を与えられ2万石から4万石に加増されました。

このような右近の行動とその結果が、戦国時代、最もかっこよく生き残った武将と言われるゆえんですが、本人の苦悩はこんな軽い言葉で言い表せることではなかったと思います。村重と信長、父:友照とオルガティノ神父、人質に差し出した妹や息子の命、決断が下せず、決断しないという決断をしました。結果オーライであることは間違いないですが、当事者の煩悶はそんなものでは無かったと思います。

さて、右近を悩ませた村重が去り、信長が本能寺の変で没すると山崎の戦いでは、秀吉側につき先鋒を務め明智光秀を敗走させ、清須会議でその功が認められて加増されます。続く賤ケ岳の戦いでは、またもや先陣の岩崎山の砦を守るも、佐久間盛政の猛攻を受けましたが、撤退して一命を保ちます。この時になにかと因縁のある中川清秀は討ち死にしています。また、撤退したことで柴田勝家との内通を疑われたようです。その後、小牧・長久手の戦い、四国征伐に秀吉軍として参戦しています。

寝返りした武将は、先鋒・先陣へ配置する。戦国時代の習いでしょう。その結果、“悪魔のささやき”の中川清秀は滅び、“天使のささやき”の高山右近は生き残りました。右近はすごくいい奴だったのでしょう。多くの大名が彼の影響でキリシタンになったようです。たとえば、蒲生氏郷・黒田考高などです。ガラシャの夫:細川忠興・前田利家も洗礼を受けてキリシタンにはなることはありませんでしたが、右近の影響を受けてキリシタンに対して好意的であったようです。

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。しかし、まもなく伴天連追放令が秀吉によって施行され、キリシタン大名には苦しい状況となります。多くの大名はウソでも信仰を捨てる道を選びましたが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選びました。その後しばらくは信仰を捨てたとされる小西行長に庇護されて小豆島肥後国などに住み、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5千石の扶持を受けて暮らしました。

ここも高山右近が後の世に、最もかっこよく生き残った武将と云われる所以です。黒田考高・小西行長等の多くの大名がしたように、ウソでも信仰を捨てて大名として残ればいいものを、バカ正直に大名を捨てる道を選びました。この時に右近は懊悩しなかったのではと思います。信仰を優先することは当たり前のことであり、大名という地位には未練がなかったと思います。この馬鹿正直さに感心した秀吉は、他の大名が右近の庇護を見て見ぬふりをしたように思います。

さて、天下人が秀吉のうちは見て見ぬふりで済みましたが、家康となるそれでは済まなくなりました。慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去しました。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン総督ファン・デ・シルバらから大歓迎を受けましたが、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取りました。享年63。マニラ到着からわずか40日のことでした。

参照 高山右近-Wikipedia

2019年1月14日 有岡城址

 

 有岡城は「有岡城の戦い」の舞台となったお城です。城主は荒木村重です。戦国時代、最も無様に生き残り、天寿をまっとうした武将です。高槻城の高山右近とは対照的だと私は思うのですが、どうですか?

 村重の人生をひも解くと、裏切りの連続だったようです。まず摂津池田城主:池田勝正に仕え一族衆までになったのに、三好三人衆の調略に乗り三好家に寝返り、池田家を乗っ取り、三好家から織田信長へ移り茨木城主になり、さらに伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主になり、信長に摂津一国を任されるまでになります。以後、摂津有馬氏を滅びし、伊丹城を有岡城に改称して信長に従い、越前一向一揆討伐、石山合戦、紀州征伐など各地を転戦し、武功を上げ、従五位下摂津守に任じられています。

 そして、理由は定かではありませんが、帰属していた信長を裏切り、1578年7月から1579年10月にかけて行われた「有岡城の戦い」が勃発します。何故、村重が三木合戦から戦線離脱をして信長に対し謀反を起こしたのかはいろいろな説があります。ただ、この時に謀反に驚いた信長が明智光秀、松井友閑、万里重元を有岡城に派遣して説得し、更に高山右近の説得により、一旦は聞き入れ、息子と共に安土に向かったのですが、茨城城の中川清秀に引き留められ、有岡城へ戻り、信長に逆意を明らかにしました。

ここら辺の村重の行動は優柔不断・よく漫画などで出てくる“天使のささやき”と“悪魔のささやき”を思い浮かべます。一旦は“天使のささやき”高山右近の説得を受け入れ安土に行こうとするのですが、途中寄った茨城城で“悪魔のささやき”中川清秀の引き留めの言葉も強烈だったのでしょう。信長は一度裏切った部下を許さないと考え直します。このときの配下だった“天使と悪魔”高山右近と中川清秀は両方とも村重を裏切り信長に帰服します。

「有岡城の戦い」は天正6年(1578年)7月に始まり、翌7年11月に戦闘が終結しました。

結局、村重は籠城した有岡城を捨て尼崎城の単身移り、尼崎城にきた部下の説得も受け入れず有岡城の女房衆122人が見殺しにし、更に村重一族と重臣の家族36人が京市中引き回しの上、六条河原で斬首されるという結果を引き起こしました。信長の村重に対する憎悪はすさまじく、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていきました。

しかし、村重とその息子・村次は尼崎城から花隈城に移り抵抗を続け、天正8年(1580年)7月まで花隈城で戦い、足掛け2年間の戦いの末、最終的には毛利に亡命して生き残りました。

その後の村重は、信長が天正10年(1580年)6月本能寺の変で横死したのち、道糞(どうふん)と名を改めて堺に居を移し、秀吉のお伽衆として出仕しました。秀吉は道薫と名を改めさせ茶人として遇しましたが、自分を裏切った高山右近には恨みを持っていたのでしょう。小西行長や高山右近等のキリシタンを讒訴して失敗、秀吉の勘気受け、その後、出家して天正14年(1586年)5月に堺にて死去。享年52歳。

人生は一度きりです。命はひとつしかありません。戦国時代の武将は籠城の上、部下・家族の助命と引き換えに切腹する名誉の戦死より、逃げ延びて無様に生き残る選択をした武将の方が多いのではと思います。それが歴史に刻まれるかどうかはわかりませんが・・・。

参照 荒木村重-Wikipedia

2019年1月14日 尼崎城址

 

 今回の摂津のお城巡りのテーマは戦国時代の武将:荒木村重と高山右近です。
戦国時代、最も無様に生き残った武将:荒木村重。最もかっこよく生き残った武将:高山右近。

まずは、尼崎城です。2019年3月29日に模擬天守が完成です。ただ、村重の時代の尼崎古城は大物城と呼ばれ、江戸時代の尼崎城から東北の位置にあったようです。

 1577年、荒木村重の長男・荒木村次が尼崎(古)城主となり、「有岡城の戦い」の荒木方の要地のひとつになりました。来年の大河の主人公明智光秀の子供は三男四女説と六男七女(二人は養女)があるようですが、長女が村重の長男の荒木村次に嫁いでいます。三女は有名な細川ガラシャです。明智光秀の長女は村重謀反の時に離縁されて光秀の元に戻ったあと明智家家臣・明智秀光に嫁ぎ山崎の合戦に敗れた後、坂本城で自害したようです。これ確か小説で読んだ記憶があります。

荒木村重、村次親子は、尼崎城と花隈城を譲れば妻子を助けるという約束を取り付けた部下の説得を受け入れず、花隈城に移り抗戦を続け、最後は毛利を頼って逃亡しました。村重は、家臣と妻子の命を犠牲にして生き残ったという最も無様な武将として生き残りました。信長の死後、茶人として堺に戻り、秀吉のお伽衆になりました。

ところで、尼崎城は江戸時代、1617年戸田氏鉄が5万石で入封して築城したものです。戸田氏の後は青山氏四代、桜井松平氏七代の藩主が納めました。桜井松平家とは松平氏の庶流。十八松平のひとつで今の安城市の桜井周辺を領していました。そういえば城の近くに桜井神社がありましたが、いわれは桜井松平氏かもしれません。

 再建尼崎城は、ほぼ外観が完成していました。お城の天守は美しいと思います。特記すべきは「創業の地に恩返ししたい」と私財12億円を市に寄付された方がいたこと、市民の寄付2億円集まって平成最後のお城が築城されました。

 名古屋城天守の木造再建もそうですが、お城の再建にはいろいろな意見があります。肯定的な意見も多いですが、否定的な意見も無視できません。確かに実質的に意味のないお城に自治体から費用支出するより、福祉や子育てにその予算を使うべきだという意見が正しいと思います。その点、尼崎城はひとりの多額の寄付で再建したため、そういう議論をする必要なく市民のシンボルができたことは素晴らしいと思います。本当は、多額の税金を使っても後世の人たちに誇れるものが建設できればいいと思うのですが・・・

2018年10月25日 二条城

 

 二条城は城好き・歴史好きな人には見逃せないお城です。

京都は千年の都です。様々な歴史の舞台でしたが、江戸時代末期の中心はこの二条城だったかもしれません。

 この二条城から南へ足を延ばし、信長最後の地:本能寺跡にも寄ってみました。この地には現在京都市の公共建物が建っており、現在の本能寺は1582年本能寺の変で焼失後に、1592年に秀吉が元の地に再建することを許さず現在地に建立された歴史があります。特筆すべきことは、本能寺跡に歴女が来ていたということです。世の中に歴史好きな女の子がいることは聞いていましたが、本能寺跡まで来るのはよほどの歴史好きだと思います。

 二条城は、二の丸御殿の内部を公開しています。幕末の大政奉還を発表した歴史的な場所の「大広間」、素晴らしい障壁画が3000面以上あります。残念だったのは、室内の写真撮影が許されていなかったことです。昔はフラッシュにより建物が傷むと考えられていたために禁止されてそのままになっていると思いますが、今はスマホが主流です。名古屋城本丸御殿でも箱館奉行所でも室内の撮影が許されていました。技術は進歩しているのにお役所の考えは昔のままのようです。

 二条城二の丸御殿の感想は名古屋城本丸御殿との違いです。古い建物と新築の建物との差はありますが、それ以上に将軍の住まいとしての二条城二の丸御殿と迎賓館としての名古屋城本丸御殿と比較してしまいます。やはり将軍を迎えるための迎賓館としての名古屋城本丸御殿の豪華さがより強く感じたのは私だけではないと思いました。部屋の格式を観るとき私は特に天井を観ます。両方とも将軍の座られる場所は「折上二重格天井(おりあげにじゅうごうしてんじょう)」ですが、名古屋城本丸御殿の方が、より豪華に感じられました。でも、二条城には歴史が感じるという良さがあります。

 現在、京都市が二条城を整備中です。正面玄関である東側空間の再整備に取り組んでいます。名古屋城と違い戦災で焼けなかったのは大きな財産です。頑張ってこの財産を生かして後世に残してもらいたいと思います。

お城好きにとって、先の大戦で明治維新から70年以上維持してきた多くの大切な財産が焼失したのは非常に残念です。その点、二条城は焼失を免れて今も幕末の時の姿を今に伝えています。また、再建の仕方も天守閣を再建せず、江戸時代の姿を伝えるのも良いと思います。お城は戦の為に作ったものですが、私たちの先祖が誇りに思ってきたものでもあります。今後も各地で身の丈に合った継続可能な再建・整備をしていって欲しいと思います。

2018年10月17日和歌山城

 

 紀の国:和歌山城へは、大阪で仕事をしているうちに是非訪れたいと思っていました。

紀伊の国でまず思い出すのは通称:雑賀孫市です。司馬遼太郎の小説『尻啖え孫市』(しりくらえまごいち)に、戦国時代、本願寺勢力として信長と対抗した人物として描かれています。作中の孫市は、司馬によると「当時の雑賀者の性格を一人に集約すれば、おそらくこうだっただろうということで創った人物像」のようです。

紀の国は、南海道に属していますが、畿内に隣接する地域ですので、畿内を治める人物にとっては重要な後背地なのでしょう。そのため、秀吉は最も信頼できる弟の秀長に任せ和歌山城を築城し、家康は自分の十男:頼宜を和歌山城主として御三家のひとつ紀州徳川家を創設しました。

和歌山城は、1958(昭和33)年に鉄筋コンクリートで再建された外観復元城です。連立式層塔型3重3層という少し変わった形式の建物です。最初に豊臣秀長が1585年に築城した城は違う形だったようで、関ケ原の合戦後に浅野幸長が築城した城を徳川頼宜が拡張したようです。ここも名古屋城と同じように戦前は国宝に指定されていましたが、和歌山大空襲により焼失してしまいました。本当に残念です。

和歌山城で思い浮かぶのは、まず8代将軍徳川吉宗です。紀伊徳川家は御三家ですが、筆頭は尾張徳川家です。それなのに紀伊徳川家から将軍が生まれたのは幸運か陰謀か。歴史的事実として御三家筆頭の大納言家の尾張徳川家からは江戸幕府の将軍は出ていません。

家康・秀忠・家光・家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗・家重・家治・家斉・家慶・家定・家茂・慶喜 江戸時代の15人の将軍のうち家がついていない将軍は秀忠・綱吉・吉宗・慶喜の4年です。偏諱:将軍の諱の一字をもらったのが4人いたということです。8代将軍:吉宗は5代将軍の綱吉から、その5代将軍:綱吉は4代目の家綱から、諱の一字を貰いました。吉宗以降の将軍は、15代の慶喜を覗いて全て紀州系、家康の十男:頼宜-光貞の子孫が将軍職に就くことになりました。結局、家康の九男:義直の子孫は一度も将軍になることができなったのは、愛知県出身者としては少し残念な気がします。

2018年8月19日小田原城

 夏の家族旅行のついでに、小田原城に来ました。ついではいけないとも思いますが、息子以外の家族、女房・娘・他の方は残念ながらお城には興味がありません。今は歴女が闊歩している世の中なのになかなか一緒に城めぐりしてくれるお友達はいません。

お城への興味で思うことは、ある程度歴史がわかっていないとお城へ登城しても面白くありません。多少の知識があると、興味があることについてはそれが積みあがっていきます。お城に登城するのも知識が積みあがっていくのが面白いと思います。

さあ、小田原城と言えばなんでしょうか。

やはり、後北条5代の本拠地がまず思い浮かぶでしょう。戦国時代の関東の覇者になるのですが、何よりこの小田原城は、戦国の大スター:上杉謙信、武田信玄に攻撃を受けて撃退した歴史を持っています。残念ながら、秀吉に後北条家は滅ぼされてしまいますが、20万人以上と言われる軍勢に囲まれている光景・・・。もしも、タイムマシンがあって何が見たいかと言えば、この小田原城の籠城戦観たいと思いませんか?

相模湾には、遠く九州勢或いは四国勢の長曾我部等が船を浮かべています。攻め込む、秀吉勢は徳川家康、前田利家、等オールスターです。旗印を見てあそこの陣には誰がいると見てみたいと思います。まあ、実際に当事者ではないのでそう言っているだけで、合戦というのは殺し合いですから、タイムマシンでいったら正視できないかもしれません。

結局、最終的には家康の天下になり、小田原は大久保忠隣に預けられます。小田原は江戸の喉元なのでよほど信頼を寄せる家臣が城主になる城でしたが、何故か大久保忠隣は改易になってしまします。大久保長安の事件に連座したと言われていますが、彦根藩預かりになってそこで没していますが、子孫はご赦免になり、再び小田原城主に返り咲いています。江戸時代でも珍しい出来事かと思います。

三河大久保一族は、まだ家康が三河統一戦を戦っているときに、よく出てきます。有名なのは大久保忠世、忠佐の兄弟です。常に家康の手足となって合戦で手柄を立てています。しかし、徳川四天王と言われた、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政、井伊直政の4人には差をつけられていたようです。

それに大久保忠隣の改易です。ですから、三河物語を著わした大久保彦左衛門の嘆きはそこにあったのだと思います。でも、大久保彦左衛門は嘆いて三河物語を著わしたことにより、四天王より有名になり後世に名を残しました。一心太助と大久保彦左衛門のお話はみんなが知っています。何が後世に名を残すかわかりませんね。

今回の小田原城に来て初めての発見は大正天皇の御用邸があったということです。残念ながら関東大震災で大破してしまいましたが、やはり小田原は江戸・東京の喉元だなと思いました。

お城へ登城するのは面白いです。

2018年6月11日 名古屋城本丸御殿

 

 6月11日は月曜日でした。本丸御殿の完成披露は6月8日の金曜日でした。ですから、この日の前日、前々日の土日は人込みと取材陣等超満員でなかなか自由に観ることができない状態のようでした。この日は前日の三分の一の人出だと係りの方はおしゃっていました。

本丸御殿を観る際に、函館の奉行所を観ることをお勧めします。私は今年の4月に函館五稜郭へ行って、箱館奉行所を観てきました。あちらも新しく立派な建物ですが、やはり、一介の奉行所です。本丸御殿と比べては気の毒です。観て欲しいのは、天井です。本丸御殿には、美しい天井が沢山あります。確かに戦災時に一時的に避難されていたために生き残った障壁画の複製画は素晴らしいものですが、『天井を見ればわかる、部屋の格式』箱館奉行所の天井はほとんどが普通の格天井(ごうてんじょう)です。部屋のランク付けはほとんどなかったのでしょう。名古屋城本丸御殿の対面所の上段の間は「黒漆二重折上げ小組格天井」に。升目を作る部材である格縁(ごうぶち)の中に細かい格子を組み入れた小組格天井をさらに高く折り上げ、漆塗りが施されています。

是非とも、各部屋の天井の違いをみて部屋の格式を想像してみてください。現在の日本の住宅でも広く使われている「竿縁天井(さおぶちてんじょう)」から始まり、45~90センチ程度の升目に組まれた「格天井(ごうてんじょう)」、格天井の中央部分を周辺よりも高く仕上げる「折上げ小組格天井」、さらにもう一段上げた「二重折上げ小組格天井」といった具合に格式が上昇。そこにどんどん漆や金具などの細工や蒔絵などが施され、もうこれ以上ない、というほどの豪華な意匠の天井を目にしたときには、本丸御殿の一番奥の上洛殿にたどり着いていることでしょう。

わからなくてもいいから、天井を観に来てください!建築を学んだ人でもわからないのだからわからないのは当たり前です。

名古屋城の本丸御殿は1615年に家康九男の義直が春姫を迎えるに当たって作った御殿です。家康は大坂夏の陣へ向かう際に、義直と春姫の婚儀をここ「対面所・下御前所」で行っています。しかも1620年には、藩主:義直は二の丸御殿に移居し、本丸御殿は2代将軍秀忠(1626年)・3代将軍家光(1634年)が上洛の際の宿泊施設として整備されるのです。将軍の宿舎ですから豪華なのは当たり前です。

そして、その本丸御殿と天守が江戸時代から明治・大正・昭和と生き残ったのです。

先日、大阪城は3度も落城している不運の城と書きましたが、それに比べると名古屋城は幸運の城でした。何故?「でした。」と過去形になるのは、先の戦争で1945年5月14日8時20分ごろ、アメリカ軍のB-29が投下した焼夷弾により大小天守、本丸御殿等が焼失してしまったからです。

名古屋城天守は、徳川家康が全国諸大名を動員した「天下普請」として1612年に天守が完成してから1945年に焼け落ちるまで約333年無事に生き残りました。これは、江戸時代初期において名古屋城(1612年)、大坂城(1626年)、江戸城(1638年)3つの巨大天守のうち江戸城は1657年の明暦の大火により焼け落ち、それから再建されることはありませんでした。また、大坂城も1665年に落雷によって消失し、以後天守を持たない城になりました。名古屋城天守の場合は奇跡と言っていいことかもしれません。

1959年に再建天守閣がSRC(鉄骨鉄筋コンクリート造)により再建され、今年(2018年)5月まで一般公開されていましたが、2019年から取り壊され、木造復元される予定です。木造復元には批判もあります。石垣の保全・修復計画等で文化庁の認可が受けられず、計画通りに2022年12月の完成は難しいかもしれませんが、1945年まで建っていた木造天守の復元です。写真も実測図もあるのは名古屋城だけです。大坂城、江戸城は、復元しようにも、写真も実測図もありません。震災で壊れた熊本城天守の復元が話題になっていますが、復元されるのは1960年にRC造で外観復元されたものです。写真はありますが実測図は無いので木造復元はできません。

名古屋城天守の木造復元には、名古屋市民にも冷めた見方があります。税金の無駄使いだという意見もあります。お城に興味のない人にはそうかもしれません。私は定年退職後の趣味としていろいろな城跡に行きます。石碑だけの城跡もあれば、立派な城を模した博物館になっているお城もあります。それぞれの自治体が工夫を凝らして保全しています。私がいいなぁと思った城跡は愛知県西尾市の東条城です。木柵と見張り台だけのお城です。歴史通りでは無いかもしれませんが、なんとなく歴史を感じる城跡でした。名古屋城の天守の木造復元は、ある意味、歴史の復元です。将来、子孫に残せる立派な文化遺産に成り得ると思います。是非も、うまく進めて欲しいと思います。

2018年6月11日名古屋城本丸御殿

2018年6月2日大阪城

2018年6月2日 大阪城

 

  大阪城は、3度落城しています。

1度目は大坂石山本願寺があった石山合戦です。
1570年から1580年までの10年間浄土真宗本願寺の顕如と織田信長が戦い、最終的には「勅命講和」により本願寺は大阪退去しました。引き渡し直後に出火し、三日三晩燃え続けて石山本願寺を完全に焼き尽くしました。各地の一向一揆はその勢いをなくし、宗教勢力は政治にかかわらないという新しい日本の伝統ができました。もし、この時、宗教勢力と対峙する武将が信長で無かったら、宗教勢力と妥協して、現在の日本でもイスラム教国のように宗教勢力が国政に影響を与えている国になっていたかもしれません。

2度目の落城は、「太閤はんのお城」の落城です。築城は1583年(天正11年)。落城は1615年(慶長20年)の大坂夏の陣ですから、「太閤はんのお城」はおよそ30年ちょっとしか建っていませんでした。 
まずは、慶長19年11月19日(1614年12月19日)大阪冬の陣開戦。有名な真田丸の戦い(12月3日、4日)で豊臣軍が徳川軍を撃退しましたが、その後は完全に攻囲され、大砲による砲撃を受けたために和議を行い、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城になりました。
慶長20年3月(1615年4月)に徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求。4月家康は、駿府を出て、徳川義直婚儀のために名古屋に向かいました。その際に大野治長の使者が来て浪人の解雇も豊臣家の移封も拒否したことにより、大阪夏の陣が始まります。ただ、家康は余裕です。4月12日には名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われています。そのついでに豊臣家を滅ぼしました。豊臣秀頼とその母淀殿は、山里丸にあった櫓にひそみ、最後を向かえました。

3度目の落城は幕末です。二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していましたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍鳥羽・伏見の戦いの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されました。この前後の混乱のうちに出火し、御殿や外堀四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失しました。
しかし天守閣については1665年(寛文5年)に落雷によって消失し、以後天守を持たない城になっていました。1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城修築工事が開始された。大坂城修築工事は1620年(元和6年)からの第一期工事で西の丸、二の丸北部・東部、三の丸、1624年(元和10年)からの第二期工事で本丸、山里丸、1628年寛永5年)からの第三期工事で二の丸南部、と実に3期にわたる工事を行って1629年(寛永6年)に完成しました。結局、徳川の天守も36年で姿を消したことになります。

今の天守は徳川の天守を模して1931年(昭和6年)にSRC造で完成しました。終戦時の空襲にも天守台を損傷したものの破壊を免れました。ということは、今の天守閣は87年以上建っており、天守閣だけを考えれば豊臣天守・徳川天守より永く建っています。

このような歴史を顧みれば、大阪城は悲劇のお城です。

よく、大阪の人々が東京への対抗意識から、今の大阪城を「太閤はんのお城」と言いますが、それは間違いです。なぜなら、今の天守は徳川のお城の天守を模したものだからです。
そして、天下人:豊臣秀吉も大阪出身ではありません。尾張中村の百姓の倅です。また、大阪が政治の中心になったこともありません。日本の時代区分はその時代の首都の名前を付けますが、「安土桃山時代」という時代名称はありますが、「安土大坂時代」とは言いません。

何が言いたいのか?

大阪城をこよなく愛して「太閤はん」を身内扱いしてくれる大阪人に、「太閤はん」の出身地の愛知県人としとして感謝しています。最近は晩年のことを思い出して、あまり秀吉のことが好きではありませんが、それでも中国の大返し(1582年)から小田原征伐(1590年)までたった8年での天下統一した秀吉は凄いと思います。合戦だけで無く、清須会議・家康を従わせたことも含めて天下統一事業は素晴らしいと思います。

 

2018年5月12日五稜郭・箱館奉行所

2018年5月12日 五稜郭・箱館奉行所

 

 今回の二泊三日の北海道旅行のメインは、花の五稜郭でした。函館には、就職して1年目か、その翌年のお盆休みに友達と一緒に来たことがあります。今から40年ほど前の話です。そのころは、お金もなかったので、一番安いお盆の帰省夜行バスで青森まで来て、青函連絡船で函館まで来ました。確か、函館山に登った記憶があります。五稜郭には来なかった記憶があります。お城は好きでしたが、若いからいつでも来られると思って40年経ってしましました。

40年ぶりの函館は。観光都市になっていました。五稜郭へは、やっと行ける、しかも、北海道の桜の咲く季節で花の五稜郭が見えると思ってやってきましたが、五稜郭の桜は北海道で一般的なエゾヤマザクラでは無くソメイヨシノです。函館の例年の開花日は4月30日で、つぼみから満開まで一週間、満開から散るまで一週間ですから、5月12日だと例年でもやっと間に合うぐらいでした。今年は開花が4月20日ごろでしたの、花の五稜郭は残念ながら見られませんでした。

歴史好きな私ですが、五稜郭で箱館戦争のことを書くと、結構な文字数になるので止めます。あまり、幕末の戊辰戦争は好みではありません。日本の合戦はチェスと違い、将棋のように降伏した者に対して寛大で・味方にして持ち駒になるという約束事があります。薩長を中心とした新政府軍はその約束事を反故にして、会津藩に戦争を仕掛けます。仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟は、会津藩に同情して会津藩を守ろうとしました。薩長中心の新政府軍は、他藩の兵を使って攻め滅ぼします。それで、成立したのが明治政府です。官軍は、賊軍がいて初めて官軍になれるのですから、賊軍を作らねばならなかったからですね。

今回、気になって五稜郭を調べてみたら、実は五稜郭は日本にふたつ有って、もうひとつは龍岡五稜郭と云って長野県佐久市田口にあり、現在、佐久市立田口小学校になっています。できれば、生きているうちに一度行ってみたいと思います。そしてこの城を築城したのが、三河奥殿藩の(大給)松平乗謨(まつだいら のりかた:維新後は大給 恒・おぎゅう ゆずる)です。この人は、非常に開明的な人で、江戸幕府の若年寄・老中・陸軍奉行・陸軍総裁を歴任して、フランス式の軍政を導入し農民兵を基礎とした幕府軍を編成しています。ちなみに、勝海舟が、松平乗謨の陸軍総裁の後任です。また、龍岡五稜郭へ移転前の奥殿陣屋(愛知県岡崎市奥殿町雑谷下10)へも現存しているようですので近いので行ってみたいと思います。

箱館五稜郭から龍岡五稜郭へ、龍岡五稜郭から奥殿陣屋へ話が飛ぶ、否、拡がるから日本の歴史は面白い・興味はつきません。

また、箱館奉行所は、幕末の1864年に建てられ、3年後大政奉還により幕府崩壊、明治4年(1871年)に明治政府により取り壊されています。わずか、7年ほどしかたっていなかった建物を当時と同じ材料と・工法により復元・完成したのが2010年6月です。ということは、現在2018年ですから、幕末~明治時代に建っていた期間を抜いたのではないかと思います。建物は素晴らしい日本建築です。この五稜郭にわずか7年ほどしか建っていなかった箱館奉行所を再建して、函館観光の目玉にした地元に敬意を表します。

ただ、比べるべきではないかもしれませんが、この建物と名古屋城の本丸御殿を比べてみると、本丸御殿の豪華さが際立ちます。仕方ないですね。だって箱館は奉行所として建てられました。名古屋城本丸御殿は、将軍の娘・春姫を迎えるために建てられ、将軍が上洛するときに宿泊する迎賓館になりました。しかし、良いですね。箱館奉行所も!お金もかかって難しい仕事ですがどちらも素晴らしいです。

更に日本建築の再建を見たいと思います。名古屋城天守閣の木造再建!期待しています。江戸時代に建てられた名古屋城天守閣を再建してもらいたいと思います。

2018年5月21日 古渡城址

2018年5月21日 古渡城址

 

 古渡城址は、現在、真宗大谷派名古屋別院いわゆる東別院と呼ばれており、古渡城の時は、二重の堀で囲まれていたといわれていますが、現在周りは真っ平であり、ここがお城だとすぐわかる空堀に囲まれた末森城址:現在、城山八幡宮とは様相が異なっています。このお城を築城して本拠地を古渡城に移したのは天文8年(1539年)で、それから、末森城に移るまでの(1548年)10年間が、信長の父:信秀の全盛期です。

 このお城では、信長の父:織田信秀を考えて見たいと思います。

織田信秀。生誕永正8年(1511年)(永正5年説・7年説あり)死没は天文21年3月3日(1552年4月8日)40余年の生涯でした。勝幡城主で清洲三奉行の一人織田信定の長男として生まれ、大永6年4月(1526年・15歳)から7年(1527年・16歳)の6月までの間に家督を譲られて当主となっています。

天文4年(1535年)12月に『森山崩れ』が起こります。三河を統一した松平清康が、織田信秀の弟の織田信光の守る守山城を攻めました。この守山の陣の最中の12月5日(12月29日)、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られ即死し、25歳の生涯をおえました。若くして家督を譲られた清康と信秀ですが、清康は若くして斃れ、信秀は清康の死により生き残ります。尚、天文3年(1534年)には信長が誕生しています。

 天文7年(1538年)ごろ、今川氏豊の居城の那古野城(名古屋市中区、のちの名古屋城)を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大しました。

その後も勢力の拡大にともなって天文8年(1539年)に古渡城(名古屋市中区)を築き居城として二つ目の経済的基盤となる熱田を支配しました。

さらに、混乱する松平氏の隙を突いて三河に侵攻し、天文9年(1540年)には安祥城を攻略し、支配下に置き長男の織田信広を置きました。松平氏は今川義元の支援を受けたが、天文11年(1542年)の第1次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利したとされますがこの戦いがあったか定かではありません。

信長の幼年時か、天文15年(1546年・信長12歳)の元服前に那古野城を譲っています。そして天文17年(1548年)に末森城(名古屋市千種区)を築いてさらに居城を移しています【勝幡城⇒那古野城(1538年)⇒古渡城(1539年)⇒末森城(1548年)】。これは、当時の戦国大名は生涯あるいは代々拠点城を動かさないことが多く、特異な戦略です。この戦略が後の信長の拠点城を清洲⇒小牧⇒岐阜⇒安土と移していく戦略のもとになっています。

信秀の古渡城のいた約10年間が、津島湊・熱田湊を支配し経済的にも軍事でも発展した時期です。1540年には第一次安城合戦により安祥城を攻撃し奪い第二次安城合戦(1545年)にも勝利し、第三次安城合戦(1549年)まで支配しました。更に天文11年(1542年)には、越前の朝倉孝景と連携し、美濃に兵を出し斎藤道山と戦い、一時大垣城を奪っています。

信秀はその頂点で、主家の大和守家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていきました。しかし信秀は終末まで守護代奉行であり、実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤、松平、今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君であった守護代家、守護家は維持したままで、尾張国内の大和守家や他の三奉行や犬山の織田信清など何度も敵対し争ったり、反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとせず、それらを抱えたまま国外の敵と戦うという限界があり、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあったと指摘され、それらの併呑や排除は信長の代に行いました。信秀側の勢力が削がれ困難の続く中、天文21年(1552年)3月3日、末森城で死去しました。

信長の天下取りの礎となった信秀ですが、信長の天下取りに一番の貢献をしたのは津島湊・熱田湊を支配したことによる経済力です。その経済力を生かした信長は、銭で雇った兵で戦う方法を生み出して天下取り一歩手前まで行きましたが、信秀が信長に伝えられなかった家族愛、一族・部下との信頼関係の構築ができずに果てたのかも知れません。

2018年5月10日末森城址

2018年5月10日 末森城址

 

 末森城址一帯は現在、城山八幡宮となっています。東西の幹線道路:末盛通が神社のすぐ南側を通っていますので、数年前までこの道路を車でよく行き来していました。しかし、この城山八幡宮に来るのは初めてです。直ぐに寄れるところでも仕事中にはやはり来られないですね。

 ただ、この城山八幡宮は、織田信秀が天文17年(1548年)に築城したときの深さ7mほどの空堀跡なで、遺構が残っており、標高は43mの丘ですが、なかなかの規模であり、攻城されたことはないようですが、難攻不落の城ではないかと思われます。また、二の丸跡地に昭和戦前の教育施設:旧・昭和塾堂が建っています。名古屋城天守閣が5月6日に閉鎖された今、代わりに内部公開して欲しい施設です。

このお城では、信長の父・織田信秀の晩年を考えて見たいと思います。

信秀は、天文17年(1548年・38歳)に末森城(名古屋市千種区)を築いて居城を移し、天文21年(1552年・享年42歳)3月3日、末森城で死去しました。末森城でのこの4年間に織田家の勢力はずいぶんと衰えました。

 

末盛城築城の年:天文17年(1548年)3月に信秀は安祥城城主の信広を先方として、4000の兵で岡崎城攻略を目指しましたが、今川義元も松平氏救援のため約1万の兵を大将:太原雪斎、副将:朝比奈泰能にて出陣させたために、第二次小豆坂の戦いになりました。結果は、織田勢は総崩れ、再び矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなり、今川・松平連合が勝利を収めました。

 

この年に松平広忠が家臣の手により刺殺されました。松平氏の次期当主である竹千代は織田氏の人質となっていたので、岡崎城は無主の状態になりました。そこで翌天文18年(1549年)、太原雪斎は11月に今川軍と松平軍を率いて安祥城を攻略(第三次安城合戦)、信広を捕虜として、竹千代と交換。今川方は、竹千代を駿府で人質とし、岡崎には代官を置きました。第三次安城合戦時には信秀は末盛城で病に伏し、安祥城への救援に向かうことができなかったようです。結果、西三河での勢力を失いました。また、このころ美濃での拠点大垣城を斎藤道三に取り戻されています。

 

天文21年(1552年・享年42歳)3月3日、末森城で死去。信秀の死に前後して鳴海城・笠寺城(それぞれ名古屋市緑区・南区)を守る山口氏が今川方に投降し、逆に今川氏の勢力が尾張側に食い込むこととなりました。

 信秀は智勇に優れた武将であり、守護代二家のうちの大和守家下の庶流という低い地位から尾張各地、そして一時は西三河まで支配し尾張国を代表する勢力となり、信長の飛躍の基盤を作りましたが、晩年は今川義元の最盛期と重なり、また、尾張では同族、清洲城、犬山城等に多くの信長の敵対勢力を残したまま亡くなりました。更に、末森城には信長の尾張統一の最大の障害になった土田御前と信之(信勝)を残しました。

ただ晩年、信秀は美濃の斎藤道三と和睦して、信長と濃姫の婚姻を決め、天文18年(1549年)に信長の正室として迎えたことが、結果的に信長への最大の援助になりました。これは歴史を知る者だけが言えることかもしれませんが・・・。

2018年5月10日守山城址

2018年5月10日 守山城址

 

 守山城に寄る前に、3月末に名古屋城にオープンした金シャチ横丁へ行ってきました。正門側に「義直ゾーン」東門側に「宗治ゾーン」があります。今まで名古屋城に行っても昼食に困りましたが、これからは「名古屋めし」が食べられるようになりました。もう少し規模を拡大して伊勢神宮の「おかげ横丁」のようになるといいなあと思います。

今回は、徳川家康の祖父:松平清康と織田信長の叔父:織田信光に焦点を当てたいと思います。

尾張守山城といえば、『森山崩れ』でしょう。『信長公記』では守山崩れ、『三河物語』では森山崩れと記載されているようですが、徳川家康の祖父の松平清康が家臣に討たれた事件なので『三河物語』の『森山崩れ』と記載します。その「森山崩れ」のあった地です。

 松平清康は、家康の祖父で、生誕日も永生8年9月7日(1511年9月28日)と明らかですし、死没日も天文4年12月5日(1535年12月29日)となっており、わずか25年の生涯でしたが、その生涯は輝かしい戦績です。

家督を継いだのがわずか13歳です。大永3年(1523年)に隠居の祖父・道閲(長親)や一門衆が父・信忠を隠居させて、子である竹千代(清康)に家督を継承させ、13歳で「安城松平家4代目」。初代:親氏から数えて7代目の当主になりました。

その後、本拠地を生誕地の安祥城から、宗家たる岡崎松平家の岡崎城を奪って拠点を移し、西三河を平定後、東三河の今橋城(後の吉田城)を攻め落とし、渥美郡の田原城、設楽郡の山家三方衆の田峯城、長篠城、亀山城等を服属させ、八名郡の宇利城を攻め滅ぼして(1529年・18歳)三河国を統一しました。

享禄3年(1530年)には尾張国へ再出兵、岩崎城 を落とし岩崎郷(日進市岩崎町)を、品野城を攻め滅ぼして、品野郷(瀬戸市品野町)を奪いました。

そしてこの勢いに乗った清康は、斎藤道三と織田を挟撃するため、1万余りの大軍を率いて尾張に進軍。天文4年(1535年)12月、清康は、織田信秀の弟の織田信光の守る守山城を攻めました。この守山の陣の最中の12月5日(12月29日)、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られ即死し、生涯をおえました。

この時の守山城主は、織田信秀の弟:信長の叔父の信光です。『三河物語』によれば、信秀打倒を目指す三河の松平清康に内応して、清康を居城の守山城に呼び寄せたことになっています。清康と反目していた松平信定の娘を妻にしていたことから、清康の家臣からは疑惑を持たれもしたが、結局『森山崩れ』により清康を落命させ、織田信秀の危機を救いました。この時信光は永正13年(1516年)生まれですので20歳です。

信光は、信長の叔父でもあります。兄の信秀なき後、信長の代になると信長に協力し、策略により清洲城を奪い、信長に清洲城を渡して、譲られた那古屋城にはいり、弘治元年11月26日(1556年1月7日・40歳)『甫庵信長記』によると、近臣で北の方(信光夫人)と通じていた坂井孫八郎により殺害されたという不慮の死を遂げています。

織田信長の天下取りの第一歩、尾張統一に叔父:織田信光は最大の貢献者です。

織田信光の生涯を見ると、何故か「内応」と「裏切り」の匂いがします。『森山崩れ』の際には「内応」して、松平清康を誘い込み偶然か必然化はわかりませんが、家臣が清康を殺害したために、兄(信長の父):信秀の危機を防ぎました。

清洲城を奪うときも「内応」するふりをして清洲城の中に入り込んで乗っ取りして、信長に清洲城を渡しています。結局、自身は信長より譲られた那古屋城で「裏切り」を怖れた信長の策略で亡くなったともいわれています。

松平清康の孫である家康に与えた最高のものは、安城松平4代目当主が安祥城から、宗家たる岡崎松平家の岡崎城を奪って松平宗家7代目になり、三河を統一したことです。結果、今川から独立したときに家康は三河統一の大義名分を得たといえます。そうでなければ、『成り上がりもの』としての三河統一は困難を極めたものと思われます。

信長にも家康にも、『成り上がりもの』のイメージはありません。これは、織田信光・松平清康のおかげといっても良いかもしれません。しかし、領国の統一にはこのイメージが大事ではないかと思います。

2018年5月3日 緒川城 於大公園

2018年5月3日 緒川城址 於大公園

 

知多郡東浦町で於大まつりが毎年4月の第3土曜日が開催されます。本当はその日に知多半島の城址巡りをするつもりで東浦町役場まで来たのですが、残念ながら駐車できずに断念しました。それで、亀崎潮干祭りに行った後の今日(5/3)廻ることにしました。

天下人・家康の生母:於大については。松平氏に離縁された後に再嫁した久松氏の本拠地:知多郡阿久比町と生地で幼少期を過ごした東浦町及び刈谷市の3市町で本家争いがありましたが、東浦町が一歩リードといってもいいかなという状況です。何故なら、総面積12.1ヘクタールに及ぶ東浦町民の憩いの場となっている「於大公園」と多くの人を集める「於大まつり」により人々の印象は、於大の方=東浦町となったような気がします。

家康の生母:於大は家康を生んだ(1543年)後、松平氏から離縁(1544年)されるのですが、それは、松平・今川陣営だった於大の父:忠政が亡くなった後に家督を継いだ異母兄:信元が織田氏に協力(織水同盟)したからです。その後於大は、知多郡坂部(阿古居)城主・久松俊勝に再嫁(1547年)するのですが、その後の話は坂部城址のところでしたいと思います。

やはり、緒川城では於大の異父兄・水野信元について語らなくてはと思います。

信元が悲運の武将だということを知っていましたが、知多半島を統一したことは知りませんでした。於大が三河の旗頭・松平広忠と離縁の原因となる織田信秀の三河侵攻に協力し、自らは知多半島へ侵攻しました。於大を阿久比の久松氏に嫁がせたのも(1547年)その一環です。また、大野・内海を領する佐治氏とも姻戚を結んで、知多半島の覇者となったようです。

水野信元は信長と家康の「清洲同盟(1562年)」を仲介し、家康が苦戦した三河一向一揆(1563年)では家康に援軍を出して助け、信長の上洛(1568年)に従軍。姉川の戦い(1570年)において佐和山城を攻落。三方ヶ原の戦い(1572年)に援軍として参陣。長島一向一揆討伐(1574年)、長篠の戦い(1575年)に参加。当時の石高は24万石と称されています。

しかし、最後は信長の武将・寄り親:佐久間信盛の讒言により武田勝頼の武将の秋元信友との内通の疑いで、信長の命を受けた甥の家康によって岡崎大樹寺で殺害(1576年)されました。3年後におこる家康嫡男・松平信康とその母・築山殿粛清(1579年)につながる事件かもしれません。

佐久間信盛追放後、信長は、信元が冤罪だったとして、家康の下にいた信元の末弟・忠重を呼び寄せて、旧領を与え水野家を再興させました。

家康は水野信元の三男を徳川家家臣土井利昌の養子とし、利昌には実子で長男の元政(甚三郎)がいましたが、それを差し置いて利勝が土井家の家督を継いでいます。徳川秀忠が生まれると(1579年)安藤重信、青山忠成と共に傅役を命じられ、出世を重ね最終的に下総古河16万石に加増移封(1633年)され、武家諸法度の制定、参勤交代制の確立など、江戸幕府初期の幕政確立に貢献しました。3代徳川家光が、酒井忠勝と共に大老に格上げ(1638年)されたことが記録されています。江戸時代に大老になれるのは井伊家・酒井家(雅樂頭流酒井家)・土井家・堀田家の4家とされています。

土井利勝を家康が重用・栄達させたのは、水野信元の実質的な嫡子として信長の命とはいえ、罪無き信元を討った償いの意味もあったかもしれないと思います。

2018年5月3日村木砦

2018年5月3日 村木砦

 

織田信秀と同盟をテコに知多半島を統一した水野信元に対し、駿河・遠江・三河の三国の太守・今川義元の狙いは尾張への浸食・まずは知多半島への侵攻です。

織田信秀の晩年病で伏せて救援できずに安祥城を今川方に奪還されたことにより今川家の三河支配は確実なものとなりました。信秀の死後(1551年)、信長が家督を相続するに当たり織田家は内紛状態になりました。そのような状況の為、織田方であった鳴海城主・山口教継父子が今川方の傘下にはいり(1552年)、その策略により大高城、沓掛城が今川方に奪われ(1553年)、知多半島西側の寺本城の花井氏も今川方に転じました。翌年には重原城も今川方に攻略され、水野信元の刈谷城と異父弟・水野忠分の緒川城ののど元に村木砦を築きました。(1553年)

水野信元は信長に救援要請に対し、信長は、信長公記で有名な那古野城の守りを斎藤道三の援軍に任せ熱田湊から、強風をついて船出し、知多半島に上陸。本陣を村木神社に置き、村木砦を攻撃・戦いに勝利(1554年1月)して今川勢を知多半島から追い払うことに成功します。

その後、信長は尾張統一を進めるとともに今川勢に対しても反転攻勢。笠寺城を奪還し、鳴海城には丹下砦・善照寺砦・中島砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築き圧迫したため、今川義元は自ら大軍を率い尾張を目指して東海道を西進。信長が奇襲により勝利した桶狭間の戦い(1560年)につながります。

村木砦の戦いは、結果的に織田と今川の最終決戦となった桶狭間の戦いの前哨戦の位置づけであったと言えると思います。この戦いで織田方が破れていた場合、多分、水野信元は、信長を見限り今川方に与していたはずです。そうすると、大高城と鳴海城の付城も機能しなくなり、織田方の最前線は愛知郡内での戦いになったことでしょう。

2018年5月3日坂部城址

2018年5月3日 坂部城址

 

 坂部城については、於大の方(おだいのかた)の再嫁した城であり、桶狭間の戦い(1560年)の前哨戦、大高城の兵糧入れを行った(後の徳川家康)松平元康が坂部城の於大の方と対面をしたとの伝説があります。

また、於大の方の夫・久松俊勝は、岡崎城に復帰した松平元康(徳川家康)に従い、永録五年(1562年)に、坂部城を先妻の息・信俊に譲り、於大と家康・信俊の異母弟妹三男五女を伴い岡崎城に移り家康に与して三河統一戦に協力し、三河国宝飯郡西郡の上之郷城を与えられたとあります。

ただ、俊勝にとっては於大の方の実家水野信元が佐久間信盛の讒言により謀殺され、水野一族は所領を没収され離散の浮目に遭ったことに腹を立て隠退してしまったようです。

また、坂部城を譲った庶長子・信俊が石山本願寺攻めに参加。石山本願寺攻めに手こずり苛立った佐久間信盛が信俊に、門徒衆と内通しているとあらぬ疑いをかけたので、自らの潔白を明かすべく無念にも自刃して果て、久松信俊の所領も水野領と同じく佐久間信盛に接収された(1577年)歴史を持ちます。

そんな不運なこともありましたが、於大の方の息子・松平康元、勝俊、定勝の3人は、松平姓を与えられるとともに、家康の異父弟であるという縁からそれぞれに累進し、江戸時代にはいずれの家系も大名に列しました。もっとも嫡統である康元の家系は当初城主であったものの断絶を重ねて旗本に家格を落とし、勝俊の家系は無城大名止まりであったのに対し、末弟・定勝の家系のみ3家が城主大名として幕末まで続きました。

定勝は兄弟中もっとも長命で、小南3,000石を振り出しに遠江掛川藩3万石、伏見城代5万石、伊勢桑名藩11万7,000石と栄進しました。定勝には6人の男子がおり、次男定行は伊予松山藩15万石の祖となり、三男・定綱は、美濃大垣藩6万石から伊勢桑名藩11万石の祖。子孫は一時、越後高田藩・陸奥白河藩に移されたこともありますが、幕末には桑名藩主でした。なお、松平定信は田安徳川家からこの家系に養子に入りました。

四国の松山市へ行くと、久松松平家が長く藩主を務めていたこと、この久松家のルーツは知多郡阿久比町で近所であることを思うと何故かしら自慢気な気持ちになります。

久松松平家は、於大の方の息子・家康の異父弟という家系を生かして、江戸時代を生き抜きました。