2018年6月2日 大阪城 (2018-08-15)

2018年6月2日大阪城

2018年6月2日 大阪城

 

  大阪城は、3度落城しています。

1度目は大坂石山本願寺があった石山合戦です。
1570年から1580年までの10年間浄土真宗本願寺の顕如と織田信長が戦い、最終的には「勅命講和」により本願寺は大阪退去しました。引き渡し直後に出火し、三日三晩燃え続けて石山本願寺を完全に焼き尽くしました。各地の一向一揆はその勢いをなくし、宗教勢力は政治にかかわらないという新しい日本の伝統ができました。もし、この時、宗教勢力と対峙する武将が信長で無かったら、宗教勢力と妥協して、現在の日本でもイスラム教国のように宗教勢力が国政に影響を与えている国になっていたかもしれません。

2度目の落城は、「太閤はんのお城」の落城です。築城は1583年(天正11年)。落城は1615年(慶長20年)の大坂夏の陣ですから、「太閤はんのお城」はおよそ30年ちょっとしか建っていませんでした。 
まずは、慶長19年11月19日(1614年12月19日)大阪冬の陣開戦。有名な真田丸の戦い(12月3日、4日)で豊臣軍が徳川軍を撃退しましたが、その後は完全に攻囲され、大砲による砲撃を受けたために和議を行い、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城になりました。
慶長20年3月(1615年4月)に徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求。4月家康は、駿府を出て、徳川義直婚儀のために名古屋に向かいました。その際に大野治長の使者が来て浪人の解雇も豊臣家の移封も拒否したことにより、大阪夏の陣が始まります。ただ、家康は余裕です。4月12日には名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われています。そのついでに豊臣家を滅ぼしました。豊臣秀頼とその母淀殿は、山里丸にあった櫓にひそみ、最後を向かえました。

3度目の落城は幕末です。二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していましたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍鳥羽・伏見の戦いの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されました。この前後の混乱のうちに出火し、御殿や外堀四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失しました。
しかし天守閣については1665年(寛文5年)に落雷によって消失し、以後天守を持たない城になっていました。1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城修築工事が開始された。大坂城修築工事は1620年(元和6年)からの第一期工事で西の丸、二の丸北部・東部、三の丸、1624年(元和10年)からの第二期工事で本丸、山里丸、1628年寛永5年)からの第三期工事で二の丸南部、と実に3期にわたる工事を行って1629年(寛永6年)に完成しました。結局、徳川の天守も36年で姿を消したことになります。

今の天守は徳川の天守を模して1931年(昭和6年)にSRC造で完成しました。終戦時の空襲にも天守台を損傷したものの破壊を免れました。ということは、今の天守閣は87年以上建っており、天守閣だけを考えれば豊臣天守・徳川天守より永く建っています。

このような歴史を顧みれば、大阪城は悲劇のお城です。

よく、大阪の人々が東京への対抗意識から、今の大阪城を「太閤はんのお城」と言いますが、それは間違いです。なぜなら、今の天守は徳川のお城の天守を模したものだからです。
そして、天下人:豊臣秀吉も大阪出身ではありません。尾張中村の百姓の倅です。また、大阪が政治の中心になったこともありません。日本の時代区分はその時代の首都の名前を付けますが、「安土桃山時代」という時代名称はありますが、「安土大坂時代」とは言いません。

何が言いたいのか?

大阪城をこよなく愛して「太閤はん」を身内扱いしてくれる大阪人に、「太閤はん」の出身地の愛知県人としとして感謝しています。最近は晩年のことを思い出して、あまり秀吉のことが好きではありませんが、それでも中国の大返し(1582年)から小田原征伐(1590年)までたった8年での天下統一した秀吉は凄いと思います。合戦だけで無く、清須会議・家康を従わせたことも含めて天下統一事業は素晴らしいと思います。