2018年6月11日 名古屋城本丸御殿
6月11日は月曜日でした。本丸御殿の完成披露は6月8日の金曜日でした。ですから、この日の前日、前々日の土日は人込みと取材陣等超満員でなかなか自由に観ることができない状態のようでした。この日は前日の三分の一の人出だと係りの方はおしゃっていました。
本丸御殿を観る際に、函館の奉行所を観ることをお勧めします。私は今年の4月に函館五稜郭へ行って、箱館奉行所を観てきました。あちらも新しく立派な建物ですが、やはり、一介の奉行所です。本丸御殿と比べては気の毒です。観て欲しいのは、天井です。本丸御殿には、美しい天井が沢山あります。確かに戦災時に一時的に避難されていたために生き残った障壁画の複製画は素晴らしいものですが、『天井を見ればわかる、部屋の格式』箱館奉行所の天井はほとんどが普通の格天井(ごうてんじょう)です。部屋のランク付けはほとんどなかったのでしょう。名古屋城本丸御殿の対面所の上段の間は「黒漆二重折上げ小組格天井」に。升目を作る部材である格縁(ごうぶち)の中に細かい格子を組み入れた小組格天井をさらに高く折り上げ、漆塗りが施されています。
是非とも、各部屋の天井の違いをみて部屋の格式を想像してみてください。現在の日本の住宅でも広く使われている「竿縁天井(さおぶちてんじょう)」から始まり、45~90センチ程度の升目に組まれた「格天井(ごうてんじょう)」、格天井の中央部分を周辺よりも高く仕上げる「折上げ小組格天井」、さらにもう一段上げた「二重折上げ小組格天井」といった具合に格式が上昇。そこにどんどん漆や金具などの細工や蒔絵などが施され、もうこれ以上ない、というほどの豪華な意匠の天井を目にしたときには、本丸御殿の一番奥の上洛殿にたどり着いていることでしょう。
わからなくてもいいから、天井を観に来てください!建築を学んだ人でもわからないのだからわからないのは当たり前です。
名古屋城の本丸御殿は1615年に家康九男の義直が春姫を迎えるに当たって作った御殿です。家康は大坂夏の陣へ向かう際に、義直と春姫の婚儀をここ「対面所・下御前所」で行っています。しかも1620年には、藩主:義直は二の丸御殿に移居し、本丸御殿は2代将軍秀忠(1626年)・3代将軍家光(1634年)が上洛の際の宿泊施設として整備されるのです。将軍の宿舎ですから豪華なのは当たり前です。
そして、その本丸御殿と天守が江戸時代から明治・大正・昭和と生き残ったのです。
先日、大阪城は3度も落城している不運の城と書きましたが、それに比べると名古屋城は幸運の城でした。何故?「でした。」と過去形になるのは、先の戦争で1945年5月14日8時20分ごろ、アメリカ軍のB-29が投下した焼夷弾により大小天守、本丸御殿等が焼失してしまったからです。
名古屋城天守は、徳川家康が全国諸大名を動員した「天下普請」として1612年に天守が完成してから1945年に焼け落ちるまで約333年無事に生き残りました。これは、江戸時代初期において名古屋城(1612年)、大坂城(1626年)、江戸城(1638年)3つの巨大天守のうち江戸城は1657年の明暦の大火により焼け落ち、それから再建されることはありませんでした。また、大坂城も1665年に落雷によって消失し、以後天守を持たない城になりました。名古屋城天守の場合は奇跡と言っていいことかもしれません。
1959年に再建天守閣がSRC(鉄骨鉄筋コンクリート造)により再建され、今年(2018年)5月まで一般公開されていましたが、2019年から取り壊され、木造復元される予定です。木造復元には批判もあります。石垣の保全・修復計画等で文化庁の認可が受けられず、計画通りに2022年12月の完成は難しいかもしれませんが、1945年まで建っていた木造天守の復元です。写真も実測図もあるのは名古屋城だけです。大坂城、江戸城は、復元しようにも、写真も実測図もありません。震災で壊れた熊本城天守の復元が話題になっていますが、復元されるのは1960年にRC造で外観復元されたものです。写真はありますが実測図は無いので木造復元はできません。
名古屋城天守の木造復元には、名古屋市民にも冷めた見方があります。税金の無駄使いだという意見もあります。お城に興味のない人にはそうかもしれません。私は定年退職後の趣味としていろいろな城跡に行きます。石碑だけの城跡もあれば、立派な城を模した博物館になっているお城もあります。それぞれの自治体が工夫を凝らして保全しています。私がいいなぁと思った城跡は愛知県西尾市の東条城です。木柵と見張り台だけのお城です。歴史通りでは無いかもしれませんが、なんとなく歴史を感じる城跡でした。名古屋城の天守の木造復元は、ある意味、歴史の復元です。将来、子孫に残せる立派な文化遺産に成り得ると思います。是非も、うまく進めて欲しいと思います。