2018年10月17日和歌山城 (2019-03-23)

2018年10月17日和歌山城

 

 紀の国:和歌山城へは、大阪で仕事をしているうちに是非訪れたいと思っていました。

紀伊の国でまず思い出すのは通称:雑賀孫市です。司馬遼太郎の小説『尻啖え孫市』(しりくらえまごいち)に、戦国時代、本願寺勢力として信長と対抗した人物として描かれています。作中の孫市は、司馬によると「当時の雑賀者の性格を一人に集約すれば、おそらくこうだっただろうということで創った人物像」のようです。

紀の国は、南海道に属していますが、畿内に隣接する地域ですので、畿内を治める人物にとっては重要な後背地なのでしょう。そのため、秀吉は最も信頼できる弟の秀長に任せ和歌山城を築城し、家康は自分の十男:頼宜を和歌山城主として御三家のひとつ紀州徳川家を創設しました。

和歌山城は、1958(昭和33)年に鉄筋コンクリートで再建された外観復元城です。連立式層塔型3重3層という少し変わった形式の建物です。最初に豊臣秀長が1585年に築城した城は違う形だったようで、関ケ原の合戦後に浅野幸長が築城した城を徳川頼宜が拡張したようです。ここも名古屋城と同じように戦前は国宝に指定されていましたが、和歌山大空襲により焼失してしまいました。本当に残念です。

和歌山城で思い浮かぶのは、まず8代将軍徳川吉宗です。紀伊徳川家は御三家ですが、筆頭は尾張徳川家です。それなのに紀伊徳川家から将軍が生まれたのは幸運か陰謀か。歴史的事実として御三家筆頭の大納言家の尾張徳川家からは江戸幕府の将軍は出ていません。

家康・秀忠・家光・家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗・家重・家治・家斉・家慶・家定・家茂・慶喜 江戸時代の15人の将軍のうち家がついていない将軍は秀忠・綱吉・吉宗・慶喜の4年です。偏諱:将軍の諱の一字をもらったのが4人いたということです。8代将軍:吉宗は5代将軍の綱吉から、その5代将軍:綱吉は4代目の家綱から、諱の一字を貰いました。吉宗以降の将軍は、15代の慶喜を覗いて全て紀州系、家康の十男:頼宜-光貞の子孫が将軍職に就くことになりました。結局、家康の九男:義直の子孫は一度も将軍になることができなったのは、愛知県出身者としては少し残念な気がします。