2019年1月14日 有岡城址 (2019-05-09)

2019年1月14日 有岡城址

 

 有岡城は「有岡城の戦い」の舞台となったお城です。城主は荒木村重です。戦国時代、最も無様に生き残り、天寿をまっとうした武将です。高槻城の高山右近とは対照的だと私は思うのですが、どうですか?

 村重の人生をひも解くと、裏切りの連続だったようです。まず摂津池田城主:池田勝正に仕え一族衆までになったのに、三好三人衆の調略に乗り三好家に寝返り、池田家を乗っ取り、三好家から織田信長へ移り茨木城主になり、さらに伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主になり、信長に摂津一国を任されるまでになります。以後、摂津有馬氏を滅びし、伊丹城を有岡城に改称して信長に従い、越前一向一揆討伐、石山合戦、紀州征伐など各地を転戦し、武功を上げ、従五位下摂津守に任じられています。

 そして、理由は定かではありませんが、帰属していた信長を裏切り、1578年7月から1579年10月にかけて行われた「有岡城の戦い」が勃発します。何故、村重が三木合戦から戦線離脱をして信長に対し謀反を起こしたのかはいろいろな説があります。ただ、この時に謀反に驚いた信長が明智光秀、松井友閑、万里重元を有岡城に派遣して説得し、更に高山右近の説得により、一旦は聞き入れ、息子と共に安土に向かったのですが、茨城城の中川清秀に引き留められ、有岡城へ戻り、信長に逆意を明らかにしました。

ここら辺の村重の行動は優柔不断・よく漫画などで出てくる“天使のささやき”と“悪魔のささやき”を思い浮かべます。一旦は“天使のささやき”高山右近の説得を受け入れ安土に行こうとするのですが、途中寄った茨城城で“悪魔のささやき”中川清秀の引き留めの言葉も強烈だったのでしょう。信長は一度裏切った部下を許さないと考え直します。このときの配下だった“天使と悪魔”高山右近と中川清秀は両方とも村重を裏切り信長に帰服します。

「有岡城の戦い」は天正6年(1578年)7月に始まり、翌7年11月に戦闘が終結しました。

結局、村重は籠城した有岡城を捨て尼崎城の単身移り、尼崎城にきた部下の説得も受け入れず有岡城の女房衆122人が見殺しにし、更に村重一族と重臣の家族36人が京市中引き回しの上、六条河原で斬首されるという結果を引き起こしました。信長の村重に対する憎悪はすさまじく、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていきました。

しかし、村重とその息子・村次は尼崎城から花隈城に移り抵抗を続け、天正8年(1580年)7月まで花隈城で戦い、足掛け2年間の戦いの末、最終的には毛利に亡命して生き残りました。

その後の村重は、信長が天正10年(1580年)6月本能寺の変で横死したのち、道糞(どうふん)と名を改めて堺に居を移し、秀吉のお伽衆として出仕しました。秀吉は道薫と名を改めさせ茶人として遇しましたが、自分を裏切った高山右近には恨みを持っていたのでしょう。小西行長や高山右近等のキリシタンを讒訴して失敗、秀吉の勘気受け、その後、出家して天正14年(1586年)5月に堺にて死去。享年52歳。

人生は一度きりです。命はひとつしかありません。戦国時代の武将は籠城の上、部下・家族の助命と引き換えに切腹する名誉の戦死より、逃げ延びて無様に生き残る選択をした武将の方が多いのではと思います。それが歴史に刻まれるかどうかはわかりませんが・・・。

参照 荒木村重-Wikipedia