2019年1月14日 高槻城址 (2019-05-09)

2019年1月14日 高槻城址

 

 戦国時代、最もかっこよく生き残った武将:高山右近と勝手に決めつけていますが、それを本人に聞いてみれば、人生はそんな尺度で決めつけるものではないと言われそうな気がします。

 高山右近は、「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」と、高槻の街を上げて宣伝し、良いイメージしかありませんが、高槻城主になった経緯は壮烈なものだったようです。

元々、高槻城は足利義昭の直臣:和田惟政が摂津三守護の一人として支配しており、高山父子は和田惟政に仕えていましたが、元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとっています。村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼしました。こうして摂津国は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となりました。

高槻城は、惟政の死後、子の惟長が城主となり、叔父の和田惟増が補佐をしていましたが、何を思ったのか、この叔父を殺害してしまいました。これにより高山家が主だった相談役となりましたが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言しました。高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いたので、高山友照はこの事を村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えました。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出し、高山父子は呼び出しが罠だと聞かされていたので、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになりました。夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗になったが、右近は火が消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせました。騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまいました。およそ助かりそうにない傷でしたが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになったようです。

高山右近の若かれし頃にこうゆう歴史があったことを初めて知りました。その後、高山父子は荒木村重の支配下に入り、信長から村重の与力として認められ晴れて高槻城主になることができました。父の友照は50歳を過ぎると高槻城主を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践し、教会建築や不況に熱心だったために領内の神社仏閣を破壊し、神官僧侶を迫害したようです。

そして、天正6年(1578年)10月末、荒木村重の反乱「有岡城の戦い」を向かえます。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしましたが失敗しました。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガティノ神父に助言を求めたところ、神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ。」と助言しました。

高槻城は要衝の地であったため、信長は右近を味方につけるべく機内の宣教師達を説得に向かわせました。右近は織田方につく意思はあったものの、村重の下にある人質達の処刑を恐れ、判断し兼ねていました。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つとなっていました。懊悩した右近は、信長に領地を返上することにより、織田との戦を回避し、尚且つ村重に対しての出兵も回避し人質処刑の口実も与えないという打開策に思い至ります。右近は紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました。村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしませんでしたが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返った)。この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、摂津国芥川郡を与えられ2万石から4万石に加増されました。

このような右近の行動とその結果が、戦国時代、最もかっこよく生き残った武将と言われるゆえんですが、本人の苦悩はこんな軽い言葉で言い表せることではなかったと思います。村重と信長、父:友照とオルガティノ神父、人質に差し出した妹や息子の命、決断が下せず、決断しないという決断をしました。結果オーライであることは間違いないですが、当事者の煩悶はそんなものでは無かったと思います。

さて、右近を悩ませた村重が去り、信長が本能寺の変で没すると山崎の戦いでは、秀吉側につき先鋒を務め明智光秀を敗走させ、清須会議でその功が認められて加増されます。続く賤ケ岳の戦いでは、またもや先陣の岩崎山の砦を守るも、佐久間盛政の猛攻を受けましたが、撤退して一命を保ちます。この時になにかと因縁のある中川清秀は討ち死にしています。また、撤退したことで柴田勝家との内通を疑われたようです。その後、小牧・長久手の戦い、四国征伐に秀吉軍として参戦しています。

寝返りした武将は、先鋒・先陣へ配置する。戦国時代の習いでしょう。その結果、“悪魔のささやき”の中川清秀は滅び、“天使のささやき”の高山右近は生き残りました。右近はすごくいい奴だったのでしょう。多くの大名が彼の影響でキリシタンになったようです。たとえば、蒲生氏郷・黒田考高などです。ガラシャの夫:細川忠興・前田利家も洗礼を受けてキリシタンにはなることはありませんでしたが、右近の影響を受けてキリシタンに対して好意的であったようです。

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。しかし、まもなく伴天連追放令が秀吉によって施行され、キリシタン大名には苦しい状況となります。多くの大名はウソでも信仰を捨てる道を選びましたが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選びました。その後しばらくは信仰を捨てたとされる小西行長に庇護されて小豆島肥後国などに住み、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5千石の扶持を受けて暮らしました。

ここも高山右近が後の世に、最もかっこよく生き残った武将と云われる所以です。黒田考高・小西行長等の多くの大名がしたように、ウソでも信仰を捨てて大名として残ればいいものを、バカ正直に大名を捨てる道を選びました。この時に右近は懊悩しなかったのではと思います。信仰を優先することは当たり前のことであり、大名という地位には未練がなかったと思います。この馬鹿正直さに感心した秀吉は、他の大名が右近の庇護を見て見ぬふりをしたように思います。

さて、天下人が秀吉のうちは見て見ぬふりで済みましたが、家康となるそれでは済まなくなりました。慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去しました。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン総督ファン・デ・シルバらから大歓迎を受けましたが、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取りました。享年63。マニラ到着からわずか40日のことでした。

参照 高山右近-Wikipedia