2019年2月24日大和郡山城址 (2019-11-08)

2019年2月24日 大和郡山城址

 

 奈良の國の戦国期の有名な城址は多くありません。日本100名城に選ばれたのが高取城ひとつで、続日本100名城に選ばれたのが大和郡山城と宇陀松山城のふたつだけです。

ちなみに世界遺産とされているものは、1993年12月登録の「法隆寺地域の仏教建造物」として①法隆寺②法起寺。1998年12月登録の「古都奈良の文化財」として③東大寺④春日大社⑤興福寺⑥元興寺⑦薬師寺、春日山原始林、平城宮跡。2004年7月登録の「紀伊山地の霊場と参詣道」〈霊場「吉野・大峯」〉吉野山⑧吉野水分神社⑨金峯山寺➉吉水神社⑪大峯山寺〈「参詣道」〉大峯奥駈道(⑫玉置神社含む)、熊野参詣道小辺路と神社仏閣が12もあります。

 奈良の國の100名城、続100名城に選ばれた他の二つの城はまだ訪れたことがありませんので良く知りませんが、大和郡山城は戦国時代の物語にはよく出てきます。洞ヶ峠の筒井順慶も有名ですが、大和郡山城といえば、大和大納言・豊臣秀長です。秀長は天下人:秀吉の異父弟。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍し、天下統一に貢献しました。

 堺屋太一氏の小説で紹介されるまでは、あまり世間には知られていませんでした。太閤秀吉という人物があまりにも巨大でその陰に隠れていたと言えるでしょうが、秀吉が黒田官兵衛に話した言葉に「官兵衛を弟:秀長と同じように思っている。」と言われて、官兵衛は感激して秀吉に忠誠を誓ったという逸話があります。官兵衛もたいしたものですが、そういう風に言われて官兵衛が感激する秀長も、秀吉が頼りにする素晴らしい人間だったと思える逸話です。このお話には更に戦国の最強軍師:竹中半兵衛が登場し、自分の後継者たる黒田官兵衛に忠告したそうですが、兄弟の情は他人とは違うのだから、あまり秀吉の弟と同じように思っていると言われても真に受けないようにした方が良いとの忠告を受けたそうです。でも官兵衛はわざと感激したのかもしれません。まあ、それだけ秀長が素晴らしかったと解釈したいと思います。

 大和郡山城は、秀長の時代、大和・紀伊・和泉100万石の中心地です。秀長のもう少し長生きしたら、もっと発展したでしょう。ちょうど名古屋・和歌山・水戸のように・。しかし、秀長には子供がいませんでした。豊臣政権は、秀長が家康より長生きだったら、続いたかもしれません。また、唐入りもなかったかも・・・。歴史のIFは禁物です。

 それより、稀代の天才:秀吉のおかげで、ひょうとしたら尾張中村の百姓で一生を終えたかもしれない秀長が大和郡山城主として100万石の太守になったことを評価すべきかもしれません。

ということで、あまりWikipediaに頼らずに書いてみました。

今までの文章に参照:Wikipediaと書くべきだったと思っています。これからはそうしますのでよろしくお願いします。