2019年4月8日   美濃金山城 (2021-08-03)

2019年4月8日   美濃金山城

美濃金山城に来ると、蘭丸ふる里の森の看板が迎えてくれます。蘭丸とは、本能寺の変で信長と一緒に亡くなった森蘭丸のことです。蘭丸は幼名で森成利というのが成人後の名のようですが、森成利と言っても誰もわかりません。やはり蘭丸で本能寺の変で坊丸と力丸と共に討ち死にしたことで世に知られています。

森蘭丸は、本能寺の変のときは、この美濃金山城の城主だったようです。森可成の次男:森長可が武田家滅亡後に海津城に入ったため、その後釜として城主になったようですが、信長の側近として働いていたため、美濃金山城の統治は家老任せだったようです。

それでも、美濃金山城は蘭丸ふる里のお城です。一番有名な人の名前を冠した方が観光的には良いですから、蘭丸は有名ですが、今日は、現地の看板の美濃金山城-興亡の歴史にあるように、蘭丸の父=6兄弟の父:森可成を取り上げたいと思います。

森可成は大永3(1523)年から元亀元(1570)年まで活躍した武将ですから、信長がまだ尾張の統一もままならない時からの家臣です。

美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の天文23年(1554年)には尾張国で織田信長に仕えました。このパターン誰かに似ていませんか?大河ドラマの「麒麟が来る」の明智光秀は、斎藤道三に仕え、道山が息子の義龍に討ち滅ぼした後に、越前に逃亡し、朝倉家に仕えています。

可成は、信長の家督相続と尾張国統一に尽力し、弘治元年(1555年)の信長による清洲城攻めでは織田信友(広信)を討つ功績を挙げ、 弘治2年(1556年)9月には信長とその弟・織田信行の家督争いである稲生の戦いにも参陣し信長軍の勝利に大いに貢献しました。永禄3年(1560年)の今川義元との桶狭間の戦いなどにも参陣しました。いわゆる苦しい時代からの部下です。

美濃攻略においても武功をあげ、斎藤勢のみならず、信濃から東美濃に侵攻してきた武田勢とも戦いました。永禄8年(1565年)には美濃金山城を与えられ、信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め(勝竜寺城の戦いなど)、上洛後には近江宇佐山城を与えられた。元亀元年(1570年)に6月に起こった姉川の戦いにも参戦しました。6兄弟は美濃金山城で生まれているので、妻のえい(妙向尼、林通安の娘)は金山城にいたのでしょう。

元亀元年(1570年)9月、宇佐山城に在った可成は浅井長政・朝倉義景の連合軍出撃の知らせを受けて進軍を妨害する為に宇佐山城より出撃して坂本に陣取り街道を封鎖。9月16日に緒戦においては連合軍3万を1千の軍勢で撃退。しかし石山本願寺法主・顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻で先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せるが、浅井対馬、玄蕃の2千に側面から攻撃を仕掛けられ、さらに朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったため信長の弟・織田信治、近江の国人・青地茂綱と共に討死しました(宇佐山城の戦い)。

信長にとって、森可成はかけがえのない武将だったと思います。森家の家督を継いだ次男の長可は、自分の後継者の信忠につけ、信濃計略に当たらせますし、更に、三男:蘭丸、四男:坊丸、五男:力丸は小姓として側に置いています。

森長可のその後も面白いので別記します。

2019年4月8日美濃金山城その後