2019年4月8日 岩村城址
岩村城と言えば、悲劇のおんな城主:おつやの方ですね。
尾張国の武将・織田信定の娘として誕生。信定は信長の祖父です。といことは、おつやの方は信長にとっては叔母に当たります。東美濃遠山氏の地頭・遠山景任に嫁ぎました。遠山氏は鎌倉時代から東美濃一帯を勢力下においており、戦国期、おつやの方の夫:遠山景任は、信玄の勢力下で、美濃の斎藤家に対する為、信長と信玄の間をうまく取り持っていたものと思われます。
元亀3年(1572年)8月14日、夫・景任が、後継ぎが無いまま病死したため、甥にあたる信長から五男の御坊丸(後の織田勝長)が養嗣子として岩村城に送り込まれました。ただし、御坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が当主の座を引き継ぎ岩村城の女城主となりました。
岩村遠山氏と苗木遠山氏は、天文23年(1554年)から信玄の勢力下だったようです。弘治2年(1557年)7月13日、父の景前が亡くなり、嫡男であった景任があとを継ぎましたが、まだ若かったことから遠山七頭の中に従わぬものがあって後継者争いが起こりました。これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た景任が当主となることができたという経緯があります。
以後、東美濃においては遠山宗家と信玄との主従関係に基づく武田支配が成立し、遠山氏は武田方に人質を出していました。他方で同年、斎藤義龍が道三を長良川の戦いで破って美濃を手中に入れると、遠山氏の中では明知遠山氏の友行の明智城攻めに加わるなど、一時的に斎藤氏にも与しました。また従来の織田氏との関係も維持されており、これが台頭して濃尾に勢力を伸ばすとむしろ接近しました。時期は不明ながら、景任が織田信長の叔母のおつやの方(織田信定の娘)を娶って縁戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属するという関係を築いていきました。特に永禄年間になると、遠山氏は武田氏と織田氏に両属して、その外交関係(甲尾同盟)を仲介する存在でした。
永禄8年(1565年)に武田軍が金山城の森可成と米田城の肥田玄蕃允を攻撃した後、信長が景任の弟を遠山直兼の娘を養女として信玄の庶子武田勝頼の室とする縁組をまとめたのも、遠山氏を介した織田氏武田氏両家の連携の一環でした。
元亀元年、秋山虎繁は三河の徳川氏を攻撃する途中で遠山領へ侵入したことで上村合戦が勃発し遠山各氏に大打撃を与え、景任の後継争いの際にも秋山が武田軍を率いて遠山の国衆と協議したと考えられています。
元亀3年(1572年)8月14日、夫:遠山景任が病死して岩村遠山氏の血統が断絶したのを機会に信長は東美濃の支配権を奪う好機として、岐阜城留守居の川尻秀隆や織田信広を岩村城に派遣して占領すると、自らの子(御坊丸のちの織田勝長)を亡くなった遠山景任の養嗣子として継がせ、おつやの方を後見人としました。元亀3年(1572年)10月、東美濃の支配権が信長に奪われたことに対して、駿河国に侵攻していた信玄は、伊那郡代秋山晴近と依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の奪還を命じました。岩村城は武田勢に包囲され、城主となっていた信長の叔母のおつやの方は秋山と婚姻(元亀4年(1573年)2月下旬)するという条件で降伏し開城しました。岩村城内に居た者は以後武田氏に仕えることになりました。秋山は御坊丸を人質として甲斐に送り、岩村遠山氏は完全に消滅しました。
これって、おつやの方のせいかな?おつやの方は秋山虎繁との婚姻により、御坊丸と城兵を守ったと言えます。後に御坊丸は信長に返還されています。
武田勢に岩村城を包囲されたときに援軍を出せなかった信長のせいではないかと思います。信長には援軍を出すに出せない状況にあったようですが・・・。
信長の当時の状況は、元亀2年(1571年)は、朝倉義景が三好三人衆、浅井長政、本願寺・顕如とともに信長包囲網を形成し信長に対し抵抗を続けた時期です。勅命講和により一旦は和睦するものの、元亀3年(1572年)、義景は浅井氏、顕如に加え、甲斐守護の武田信玄も仲間に引きずり込み再び信長包囲網を形成しました。信長は西方の本願寺と三好三人衆、東方の朝倉・浅井連合軍に挟撃され、同盟者の家康も元亀3年(1572年)12月21日遠江・三方ヶ原で信玄に大敗するなどし、窮地に立たされていました。しかし12月になって義景が越前に帰国したため、信長はひとまず危機を脱しました。そして信玄の死(元亀4年(1573年)4月)により窮地を脱することができました。
織田軍は天正3年(1575年)5月21日長篠の戦で武田勝頼軍を破ると、織田信忠らが岩村城を包囲。勝頼は岩村城を救援するべく出陣しましたが、到着するより前の11月21日、岩村城は落城した(天正3年(1575年)の岩村城の戦い)。信長は虎繁らを赦免すると見せかけ、礼に来たところを捕らえ、長良川近くで磔刑にしました。その理由は、長篠城の奥平信昌が徳川家康に寝返った際、武田勝頼が奥平の妻を磔にしたので、その報復だということでした(『甲陽軍鑑』)。おつやの方もまた信長に捕らえられて逆さ磔で処刑されました。あるいは信長が裏切られた鬱憤を晴らすために自ら斬ったともいわれています。