2019年4月8日苗木城
この日は風が非常に強い日で、月曜日でしたので私達しか人影はなく、苗木城へいくのは、風で飛ばされそうで怖かったことを思いだします。
写真を見ていただければわかると思いますが、岩
場の山の上の天空の山城です。とてもインスタ映えするので、もっとアピールして史料館或いは苗木桜公園に道の駅を併設されると良い観光スポットなると思いました。
歴史的には、東濃に起こった遠山氏は、一時「遠山七家」が諸城に
拠って東濃地方に威を張りました。しかし江戸時代、諸候として苗木遠山氏と旗本の明知遠山氏の二家のみしか存続しませんでした。テレビや映画でおなじみの「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元は、明知遠山氏の末にあたります。
知行500石の明智遠山氏の分家の6代目の「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元と、1万石の苗木藩の遠山家とどちらが良いか?
石高だけを見ると「苗木遠山氏」ですが、内情はさにあらず、1万石の大名は大変だったようです。藩政においては幕府の相次ぐ手伝い普請や軍役などにより財政窮乏が早くから始まり、このため新田開発を行なって4286石の新田を開発しましたが、第5代藩主・遠山友由の大坂加番による出費などもあって財政の改善には至らなかった。歴代藩主は藩政維持のため、厳しい倹約令を出し、天保年間には給米全額の借り上げを行なうなどしました。
最後の藩主・遠山友禄は文久元年(1861年)に若年寄となり、さらに大坂警備も任されましたが、そのため出費がさらに重なって財政は火の車となり、友禄は五種類の藩札発行による改革を図りました。しかし、元治元年(1865年)に2度目の若年寄就任、慶応元年(1865年)に第2次長州征伐にも参
加したことによる軍費から、遂に財政は破綻しました。明治維新後、14万両あった藩の借金苗木城破却に伴う建材や武具などの売却、藩士全員
を強制的に帰農、家禄を返還させ、帰農法に基づいて政府から支給される扶持米を3年間返上させること、藩知事遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、明治4年(1871年)には5万2600両までに縮小しました。
(結局、最後はどうしたんだろう?最後の藩主:遠山友禄は子爵になっていますが、絶対に借金を返してないと思います)
等々、ウィキペディアの文章を読むと、1万石の大名なんてイヤダ!
「遠山の金さん」が良いと思うのは私だけでしょうか?