2019年8月11日 山形城址 (2022-08-09)

2019年8月11日山形城址

山形城と云えば、最上義光でしょう。大河ドラマ「独眼竜政宗」で原田芳雄さん演ずる最上義光は強烈でした。かなりの悪役でしたが、ゾクゾクするほど残虐で、カッコイイヒール役、卑劣で凶悪な武将として、妹の子の伊達政宗をとにかく貶める役柄は強烈でした。

もうひとつ戦国武将「最上義光」の有名なエピソードは、秀吉が天下統一を果たした後です。秀吉の跡取りであった秀次が、東国一の美少女と名高かった義光の次女の駒姫を側室に出すように義光に迫り、義光は断ったものの度重なる要求に折れ、15歳になったら娘を山形から京へ嫁がせると約束。

文禄4年(1595年)、駒姫は京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、7月15日、秀次は豊臣秀吉の命により高野山で切腹させられ、そして駒姫も8月2日に他の秀次の側室達と共に、三条河原に引き立てられ11番目に処刑された。まだ実質的な側室になる前だったと言われています。

慶長5年(1600年)9月。西の関ケ原と言われた「慶長出羽合戦」の後、庄内地方を手に入れた義光は出羽山形藩57万石の大藩となりました。

家康の時代になり、家督は嫡男・義康では無く家康に近侍させていた次男・家親が継ぐことになります。嫡男・義康の廃嫡は家康の意向を受け手と言われています。義光の死後、後を継いだ家親は元和3年(1617年)に急死した。家親の子・義俊(義光の孫)が後を継いだが、後継者をめぐって内紛が発生し幕府の仲介でも解決しなかったため、家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の元和8年(1622年)に改易されてしまいました。

最上義光は、戦国武将としては成功者でしょう。しかし子孫は大名として生き残ることができませんでした。山形藩は最上家が改易になった後、徳川家譜代の鳥居家や保科家の時代には、東北地方の徳川藩屏として君臨し、この時期の所領は20万石前後の中藩になりましたが、保科家が会津に移封されると山形藩は幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が12家にわたって頻繁に入れ替わった。しかもこの時期の所領は6万石、多くても10万石程度の小藩となり、藩主も譜代大名のため在国より江戸滞在が長期化し、所領も関東に飛び地が存在していたことから藩政は不安定だったようです。

残念ながら、江戸時代の出羽山形城は幕閣の左遷地だったようです。

また、現地には「さがしています!本丸御殿や一文字櫓の写真や白の古絵図の資料を探しています。お心当たりの方は、ご連絡ください」の看板があります。山形城には元々天守閣は存在せず、本丸内に御殿がありましたが、間取り図は存在するものの建物の形を確認できる立面図等が見つかっていない為、本丸御殿御殿を復元できないということで、本丸御殿の絵図等を探していました。