2019年9月26日 松本城 (2022-08-10)

2019年9月26日 松本城

 

国宝「松本城」には、4~5回来ていると思います。割と愛知県から近いし、見ごたえのあるお城ですから何回か訪れます。前回は小学校からの同級生と2017年10月に来ています。このお城の良さは、程よい大きさかなぁ?

犬山城、姫路城、松本城、彦根城、松江城の5つの国宝天守で姫路城は巨大すぎるし、犬山城は少し物足りない、彦根城はいつ行っても混雑している。松江城は遠いよなぁ。となるとやはり松本城へ行こうですね。

今回は、たまたま泊まり込みでセミナーを松本まで聞きに来て、ずうずうしくセミナー後の懇親会まで参加させていただき、ホテルで朝起きたら松本だ。松本へ来たなら松本城へ行かなければと思いやってきました。昨日遅くまで飲んでいたので体調は最悪でした。

 

とはいえ、松本城といえば、初代藩主が石川数正です。石川数正は注目すべき戦国武将ですが、あまりかかわったお城が少ないようですので。松本城で取り上げます。

 

松本藩の藩祖は、徳川家康に仕えた「三河の旗頭」の一人・石川数正である。数正は家康が今川義元の人質だった頃から仕えていた最古参の家臣で、永禄5年(1562年)の織田信長と家康との同盟締結に大きな功を挙げた人物である。しかし小牧・長久手の戦い後の天正13年(1585年)11月13日、数正は突如として家康の下から出奔し、当時家康の宿敵であった羽柴秀吉のもとへ降った。この出奔には諸説あり、未だに定説はない。

 

その定説について私なりの推理です。家康と数正は信頼しあっていたと思います。数正は、秀吉との交渉役として秀吉に頻繁に合っていましたので、秀吉からヘッドハンティングの誘いを受けます。その際、家康と相談したと思います。

家康は家臣団の主流から外れた数正を秀吉側へスパイとして送り込んだものと推測します。その結果、天正14年(1586年)に、秀吉は自分の妹の「旭姫(朝日姫)」を、家康の妻として嫁がせています。それでも上洛しない家康を母のなかを人質として岡崎城に送ったため、家康は上洛して臣従したと推測します。

家康は数正からの情報を元に自分を秀吉に相当高く売り込んだものと推測します。そう考えたほうが世の中、面白いですから。