2020年12月3日 越前丸岡城 (2024-04-17)

2020年12月3日 越前丸岡城

 

丸岡城は、戦国時代に築かれ、一向一揆への備えとして信長の命により柴田勝家が甥の勝豊によって建造されました。城内には、排水がよく大雨に崩れる心配がないとされる古い方式である「野づら積み」の石垣があります。また、江戸時代に建設された天守が現存しており、これは日本全国に現存する12城の一つである「現存十二天守」に数えられています。丸岡城は北陸地方唯一の現存天守であり、国の重要文化財に指定されています。

丸岡城内には、家康の三河三奉行の一人の本多作左衛門重次(本多重次)によって書かれた「一筆啓上」の石碑があります。この手紙は、本多重次が戦場から妻に宛てたもので、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という短い文言から成り立ち、日本一簡潔な手紙として有名です。

お仙は、本多重次の長男であり、後に本多成重として知られ、丸岡城の城主として活躍しました。彼は徳川氏に仕え、丸岡4万石を領し、若年の福井城主・松平忠直を補佐しました。成重は大坂の陣で武功を挙げ、従五位下飛騨守に任じられました。1623年に忠直が改易されると一時江戸幕府に召し返されましたが、1624年には再び越前丸岡4万6300石の譜代大名として任命されました。彼は城下町の建設や治水工事など藩政の基礎を固め、1646年に隠居して長男の重能に藩を譲りました。また、坂井市の丸岡文化財団では、本多重次の「一筆啓上」を「日本一短い手紙」として毎年募集し、「新一筆啓上賞」を授与して町おこしに活用しています。

お城好きにとっては「現存十二天守」ですから、絶対に登城しておかなければいけないお城です。ただ、天守としてはとても小さい、四国の丸亀城と同じくらいかなぁ?
明治になって、城は民間に払い下げられ、丸岡城も天守以外が失われました。しかし、地元の有志が天守を買い戻し、寺や公会堂として活用。昭和9年には国宝(後の重要文化財)に指定され、昭和15~17年に解体修理が行われました。昭和23年の福井地震で丸岡城天守は倒壊し、昭和30年に修復されました。他の天守が失われた中、丸岡城天守だけが再建され、歴史的な波乱を乗り越えた証となっています。城の数が減少し、昭和初期には20基あった天守のうち、現存十二天守だけが残りました。