2020年12月4日 北ノ庄城址 (2024-04-17)

2020年12月4日 北ノ庄城址

 

北ノ庄城には、柴田氏によって築かれた「柴田氏北ノ庄城」と、後に結城氏によって築城または改築された「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」があります。現在見られる福井城の遺構は、結城氏によって築かれたものであるとされています。北ノ庄城は、天正3年(1575年)に柴田勝家により築かれ、一方、結城氏北ノ庄城は慶長6年(1601年)に結城秀康によって築かれたか、あるいは改築されたものとされています。その後、結城氏北ノ庄城は福井城に改名されました。

柴田神社には、柴田勝家公とお市の方が合祀されています。そのため、神社内には勝家公とお市の方、そして浅井三姉妹の銅像が建てられています。

信長は天正元年(1573年)9月に、柴田勝家に越前国八郡の領地を与え、北ノ庄城(現在の福井市)を築かせました。その後、天正4年(1576年)には勝家は北陸方面軍司令官に任命され、前田利家や佐々成政、不破光治らの与力を得て、加賀国の平定を任されました。

本能寺の変で織田信長が討たれると、柴田勝家は次なる実権争いで豊臣秀吉との対立が深まりました。彼は旧織田家を守るために、織田信長の妹で戦国一の美女と称されるお市と結婚しました。この結婚は25歳も年齢差があったが、柴田勝家は初婚であり、一説によればお市への想いは長年にわたっていたとも言われます。結婚後わずか1年も経たないうちに、豊臣秀吉に攻め込まれ、北ノ庄城で二人とも自害しました。

浅井三姉妹は、戦国時代の武将浅井長政と正室市との間に生まれた3人の娘、茶々、初、江を指します。彼女たちはそれぞれ豊臣秀吉、京極高次、徳川秀忠の妻(正室・側室)となりました。彼女たちは織田信長の姪という血筋に生まれ、2度の戦国大名家の没落や落城、両親の死を経験し、その後は豊臣家(羽柴家)と徳川家の天下の覇権争いに深く関わりました。そのため、母・市とともに戦国の女性の代表的存在として語られています。

柴田勝家というと有名な武将ですが、時代劇では信長にいいように使われ、秀吉・光秀との対比で、あまり良い印象はありません。それでも信長の妹:お市の方を娶ったことが彼の人生を彩りあふれるものにしていると思います。歳と子どもの年齢もあったと思いますが、お市の方は、浅井長政とは一緒に死ねませんでしたが、柴田勝家とはふたりで自害しました。このことが勝家の生涯を豊かなものにしていると考えるのはちょっとおかしいかなぁ?