2020年12月4日 福井城址
福井城は、徳川家康の次男・初代福井藩主・結城秀康が慶長11年(1606年)に築城し、約270年間17代にわたり越前松平家の繁栄の舞台となった名城。築城当時は高さ37m・四層五階の雄大な天守閣が建っていましたが、大火で焼失。現在では石垣と堀の一部だけが残るのみですが、広大な堀の姿からも、当時の規模をうかがい知ることができます。
現在、本丸跡地には福井県庁、福井県議会や福井県警察本部が庁舎を構えています。
明治維新後、福井藩は福井城の解体を政府に申請し、その後陸軍省の管轄となりました。しかし、旧藩士たちはその地を借り受け、農地として開墾しました。後に、松平茂昭が福井城跡を買い戻し、旧城内に農業試験場「松平試農場」が設立されました。1936年には松平家が城の一部を売却し、その地域は繁華街として利用されましたが、遺構の一部は現在も残っています。福井城跡には福井県庁などの施設が建てられ、公園として整備されています。また、城内の一部は瑞源寺に移築され、城の名前や藩名「福井」の由来となる「福の井」と呼ばれる井戸も残っています。高照山瑞源寺の本堂と書院は福井城本丸御殿の移築遺構であり、幕末の建物と一致することが判明しました。さらに、東照宮の唐門も一部が移築され、現在は倉庫で保管されています。
秀康は、天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男・秀康が遠江国宇布見村で生まれました。幼名は於義伊。母は家康の正室ではなく、正室の築山殿としては認められず浜松城から追放されました。幼少期は兄や領主のもとで育ち、10歳までに武士としての教育を受けました。築山殿の死後、家康の子として認知されましたが、後継者としての地位は異母弟の秀忠に譲られました。秀康は豊臣秀吉の養子となり、河内国1万石を与えられました。その後、結城姓を賜り、1600年の関ヶ原の戦いでは家康の命で上杉景勝の抑えを担当し、慶長5年(1600年)11月、秀康は越前国北ノ庄68万石余に加増移封され、藩政の基礎を築き、福井藩の発展に貢献しました。また、彼の治世下で城下町の整備や城の建設が行われ、福井の地域社会に大きな影響を与えました。慶長12年に病に倒れ、死去しました。
本丸跡地には福井県庁、福井県議会や福井県警察本部が庁舎を構えているお城の跡地は、県庁所在地にはよく見られますが、福井県庁の場合は内堀のど真ん中にあり、昔のお城のように感じられる県庁舎は、全国的にも珍しいかもしれません。
2008年(平成20年)御廊下橋が復元されました。屋根と壁の付いた木造の橋です。周辺は「歴史のみち」となっており、福井市のCentral Parkとして整備されています。