2020年12月4日 越前一乗谷城址 (2024-04-17)

2020年12月4日 越前一乗谷城址

 

越前一乗谷城址は、越前朝倉氏の本拠地で、敏景から数えて五代にわたって栄えました。城は一乗川の両側に位置し、家臣の屋敷や城下町が築かれ、南北5キロの谷を両端に虎口を設けて守る構造で、かつては1万人が暮らす都市と称されました。背後には一乗谷山城があり、140箇所の竪堀が残っています。朝倉氏滅亡後、都市として再興されることなく埋もれ農村となり、このことが遺跡を400年以上も良好に保存した要因となりました。発掘調査では、当時の建物の区割りなどが城下町全体の良好な状態で出土しています。城は敏景の代に建てられ、100年以上にわたって栄華を極めましたが、朝倉五代目の義景の代に織田信長に攻められて落城し、朝倉氏は滅亡しました。

一乗谷城には、永禄10年(1567)に足利義昭将軍が逗留し、北国の京都と称されるほど栄えました。朝倉氏の居館跡は政治の中心地であり、初代敏景から五代にわたる朝倉氏の生活空間でもありました。居館跡は土塁で囲まれ、堀も一部がめぐらされていました。古井戸や湯殿跡、庭園、貯水池などが残ります。一乗山の背後には小見放城跡があり、山頂部には一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸があり、それぞれ竪堀で囲まれています。

朝倉氏が歴史の表舞台に立つのは、朝倉氏と親密な関係を持っていた足利義輝が永禄8年(1565)に暗殺され、その弟の足利義昭は朝倉義景と大覚寺義俊の助けを借りて逃れ、越前に3年間滞在しました。義景は義昭を厚く歓迎し、後見役として扱いましたが、最終的に義昭は織田信長を頼って上洛し、将軍となりました。

この事例を持ち出し、朝倉義景が足利義昭を奉じて上洛すれば信長に代わって、天下人になる機会があったという人もいますが、朝倉義景はやはり天下人の器ではなかったようです。

義景は、義昭を擁しての上洛はせず、代わりに尾張国の織田信長が京都の政権を掌握した後に従うこともありませんでした。朝倉義景は浅井長政らと信長との戦いに度々挑みましたが、1573年に敗れて一乗谷を焼かれ、義景は自刃しました。この戦いで朝倉氏は滅亡し、戦国大名としての朝倉氏の歴史は幕を閉じました。

次期将軍:足利義昭が越前に来ない方が良かったかな?それでも滅んだかな越前朝倉氏は?