2018年3月24日-3 清洲城 (2018-04-16)

2018年3月24日清洲城

2018年3月24日 清洲城

 

清洲城は、戦国期の尾張の中心地です。この地を信長が支配したことにより、信長は尾張を平定し、桶狭間で今川を避け、美濃に進出することが出来たと言っても過言ではありません。

この地の名前が使われる言葉が、「清洲同盟」「清洲会議」「清洲越し」と歴史に刻まれるワードがいくつもあります。こんな地は日本にいくつもないのではと思います。

今回は信長がテーマですから「清洲同盟」でしょう。

信長と家康との間で結ばれた軍事同盟です。結ばれたときは、今川から独立したばかりの家康と美濃の斎藤氏と交戦している信長の間を家康の母方の叔父にあたる水野信元が間に立ったと言われています。

この同盟により、家康は、足利義昭を奉じての上洛戦・朝倉攻めの金ケ崎の退口・姉川の戦いなど信長の援軍派遣要請に協力し軍事的協力を行っていますが、対する信長の軍事協力は、三方ヶ原の戦い時には、織田派遣軍3千人と少数のため大敗しています。織田・徳川連合軍は長篠の戦いで武田勝頼に大打撃を与えることができましたが、その後も家康は、対武田に悪戦苦闘が続きました。

いつしか、対等同盟であったはずの「清洲同盟」は家康が信長に従属する形となり、叔父:水野信元の殺害。嫡男:信康、正妻:築山殿の処刑を命じられても抗えない立場になってしまったようです。

結局、本能寺の変により、信長が横死する20年間も同盟が維持できたのは異例のことで、その後の日本の歴史を大きく左右することになった同盟と言えるでしょう。