2018年4月2日-1 西尾城址 (2018-04-16)

2018年4月2日西尾城址

2018年4月2日 西尾城址

 

同級生と三河お城めぐりです。

まずは西尾城址です。現在は西尾市歴史公園として整備され、公園内内は資料館・旧近衛邸などが整備されています。あいにく月曜日でしたので資料館・旧近衛邸内には入場できませんでした。

この地の歴史上で一番気になるのは、徳川家康が活躍した戦国時代よりも前の鎌倉期に足利義氏の長男・長氏が三河守護に任命され、幡豆郡吉良庄西条に西条城を築城したという歴史です。当初の西条城は矢作古川をはさんで東条城と対となっていたという説がありますが、定かではないようです。西条という地名から西尾に改名したと言い伝えられています。

近くに桶狭間で織田信長に打ち取られた今川義元で有名な今川氏の発祥の地といわれる今川町という地名もあります。

「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良家が継ぎ、吉良家が絶えれば今川が継ぐ」といわれたとおり、駿河守護・遠江と三河の地も治めた戦国大名今川家は吉良家の分家です。

ただ、吉良氏は応仁の乱以前から身内同士の抗争が絶えず、戦国期には駿河守護今川氏から圧迫を受け、尾張国の織田氏に加担して、今川に対抗するも戦いに敗れ、今川義元に隷属し家名存続を許されたようです。桶狭間の戦いで義元が打ち取られた後は、今度は松平家康との抗争にも破れました。

その後は、徳川氏の庇護を受け、江戸期には忠臣蔵の吉良上野介義央につながる名門の高家筆頭の家柄です。

しかし、西尾市は江戸期に西尾6万石の譜代大名の西尾藩であり、隣地の旗本領主の吉良氏を地元の著名人とは思っておらず、旧吉良町の住民も2011年に西尾市に編入されたことにより吉良という地名と共に吉良氏は、忘れ去られていく定めかもしれません。