2018年4月2日 刈谷城址
トヨタグループの祖・豊田佐吉候が豊田自動織機をこの地から始めたことにより、現在の刈谷市は、トヨタグループの多くの会社があります。トヨタ自動車だけを考えれば豊田市ですが、その兄弟会社のデンソー、アイシン精機等の本社があります。デンソーとアイシン精機は、トヨタ自動車の一次下請けとも言えますが、豊田自動織機を親会社と考えれば、長男がトヨタ自動車、次男がデンソー、三男がアイシン精機です。そして祖親会社が豊田紡織です。
すいません、刈谷城址の石碑の隣に豊田佐吉候の銅像がありましたのでついお城とは関係ないことを記述しまして本題に移ります。
この地が歴史に刻まれるのは、天下人・家康の生母:於大がこの地:刈谷城から岡崎城の松平広忠に嫁したことでしょう。天文2年(1533年)水野忠政が築城。水野氏は知多郡緒川から本拠地を刈谷に移してから、於大は嫁いだようですが、幼少時代は知多郡緒川に住んでいたようです。
忠政の無くなった後を於大の異父弟:信元が継ぎ、今川方と手を切り、織水同盟を締結。
結果、水野信元は、織田方として対今川戦の最前線となりました。
天文23年(1554年)今川氏に刈谷城を包囲され、本拠地:緒川城の眼前に村木砦を築かれ窮地に陥り信長に援軍を要請。信長公記で有名な村木砦の戦いにより村木砦を攻略。いくつかの小競り合いの後、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いが起こります。
桶狭間の戦いについては、今川義元の上洛説とか織田領:尾張攻略説などがありますが、今川義元のこの戦いの意図は、大高城・鳴海城の付城を取り除き、水野氏を滅ぼす知多半島の争奪戦であったと考えます。ですから、この戦いで信長を滅ぼす意図が無い為、今川方が織田方の奇襲を許す油断を生んだと考えられます。
信長にすれば、水野氏が滅ぶということは、戦線が大高・鳴海城の知多郡から愛知郡に移り窮地に陥ることは必須ですから、一か八かの強襲を行うしか生き残る術がなかったでしょう。運よく義元を討ち取り今川軍を退却させることができたと言えるでしょう。
水野信元は歴史上名高い、信長と家康の清洲同盟を仲介。家康が苦しんだ三河一向一揆に援軍を出し、甥の家康を助けています。また、姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・長島一向一揆討伐・長篠の戦い等に歴史上有名な戦いに参戦しているようです。
しかし、最後は信長の武将・寄り親:佐久間信盛の讒言により武田勝頼の武将の秋元信友との内通の疑いで、信長の命を受けた甥の家康によって岡崎大樹寺で殺害されました。
天下人になる信長と家康のふたりは、水野信元の協力なくしては初期の危機を脱しえなかったと思われますが、結局、そのふたりに命を奪われて最後を向かえました。