2018年5月3日-4 大野城址 (2018-05-05)

2018年5月3日大野城址

2018年5月3日 大野城址

 

 大野城は、佐治氏の城です。2重3階のRC造の模擬天守が展望台となっています。私の勝手な命名ですが、緒川城の水野氏、坂部城の久松氏、大野城の佐治氏が知多半島の戦国有力な三氏と言えるのではと思います。また、愛知県出身の武将は、戦国期に有名な武将・江戸時代には大名になった武将が多くいます。

 ただ、佐治氏は水野氏、久松氏のように江戸時代に大名として生き残ることができませんでした。水野氏は別ですが、佐治氏と久松氏は境遇が似ていたように思います。

 戦国期、尾張佐治氏は知多半島の大野を中心とする西海岸地域を領する一族で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていました。織田家との結びつきは、佐治信方が信長の妹のお犬の方を正室に迎えています。伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていた佐治氏は、織田方に重要視され、桶狭間の戦いの後に信長に臣従しましたが、妹を妻に与えられ、信長の字を拝領されて「信方」と改名するなど、待遇は一門衆並みであったようです。

信方の室・お犬の方は、歴史上有名なお市の方の妹です。お市の方は、政略結婚で近江小谷城主・浅井長政の正室となっています。信長の天下取りの第一歩の上洛は浅井長政の協力無しでは実現しなかったことでしょう。お犬の方の婚姻も政略結婚と思われます。津島湊、熱田湊の交易を大きな財源とする信長にとって、伊勢湾海上交通は非常に重要であったために、もう一人の妹を佐治信方に嫁がせたのでしょう。

お犬の方の夫・信方は、長島攻めに従軍して戦死します。(1574年)その嫡男・一成が家督を継ぎます。佐治一成は1569年生まれとされていますので、まだ5歳。母のお犬の方が後見と信長の後ろ盾で家を存続させたのでしょう。この佐治一成がお市の方の3女お江を娶るのは本能寺の変(1582年)の後、羽柴秀吉が賤ケ岳の戦いにより、柴田勝家を破り、北ノ庄落城(1583年)の際、お市の方は勝家とともに自害、その娘の三姉妹は秀吉により保護されたとなっています。しかし、織田信雄が保護したとの説もあります。

秀吉の意向により、佐治一成にお江を嫁いだのは、当然北ノ庄落城後の翌年(1584年)になります。すると、一成15歳、お江12歳です。何故、秀吉はこの婚姻を勧めたか?大河ドラマではお市の方とそっくりの茶々を側室にするため、妹たちを他家に嫁がせたとの説でしたが、織田信雄保護説であれば、信雄が信長の妹・お犬の方を母にもつ織田一門として重要な佐治一成に嫁がせたとした方が腑に落ちます。

婚姻間もなく、秀吉と信雄・家康連合軍との間に小牧・長久手の戦い(1584年)が勃発。秀吉の策した政略結婚の意味がなくなったので離縁され、一成は大野退去処分になったとありますが、秀吉と信雄の狭間にいて、伊勢湾海上交通を掌握する佐治氏の存在が、秀吉か信雄か或いは両方に取って、不必要な存在になったということかもしれません。

その後、一成は叔父・織田信包の領する伊勢に逃れてその家中にあり、後に信長の側室・お鍋の方の娘で従妹に当たる於振を正室に迎えたと伝えられ、最後は京都にて死去(1634年)。享年66歳。当時の感覚では長生きだったと思います。

冒頭に記したように、佐治氏は江戸時代大名として生き残ることができませんでした。佐治一成の最初の室・お江は、羽柴秀勝に嫁ぎ一女を成し、秀勝が文禄の役(1592年)病没後に、徳川秀忠に再嫁(1595年)し、三代将軍家光を含め2男5女を儲けています。

佐治氏と、同じ知多半島出身の久松氏との違いは久松利久と於大の方と間には沢山の子を儲けましたが、一成とお江の間に子がいなかったこと為、佐治氏がその後の歴史に埋もれてしまったのでしょう。

15歳と12歳という年齢と、1年も無かった婚姻期間ですので、それはやむを得ないことだったかもしれません。でも、一成は元妻が将軍の御台所となり、次の将軍の母になったことを知っていたのでしょうか。また知っていたのであればどういうふうに感じていたでしょうか?興味深いです。