2018年5月3日-3 坂部城址 (2018-05-05)

2018年5月3日坂部城址

2018年5月3日 坂部城址

 

 坂部城については、於大の方(おだいのかた)の再嫁した城であり、桶狭間の戦い(1560年)の前哨戦、大高城の兵糧入れを行った(後の徳川家康)松平元康が坂部城の於大の方と対面をしたとの伝説があります。

また、於大の方の夫・久松俊勝は、岡崎城に復帰した松平元康(徳川家康)に従い、永録五年(1562年)に、坂部城を先妻の息・信俊に譲り、於大と家康・信俊の異母弟妹三男五女を伴い岡崎城に移り家康に与して三河統一戦に協力し、三河国宝飯郡西郡の上之郷城を与えられたとあります。

ただ、俊勝にとっては於大の方の実家水野信元が佐久間信盛の讒言により謀殺され、水野一族は所領を没収され離散の浮目に遭ったことに腹を立て隠退してしまったようです。

また、坂部城を譲った庶長子・信俊が石山本願寺攻めに参加。石山本願寺攻めに手こずり苛立った佐久間信盛が信俊に、門徒衆と内通しているとあらぬ疑いをかけたので、自らの潔白を明かすべく無念にも自刃して果て、久松信俊の所領も水野領と同じく佐久間信盛に接収された(1577年)歴史を持ちます。

そんな不運なこともありましたが、於大の方の息子・松平康元、勝俊、定勝の3人は、松平姓を与えられるとともに、家康の異父弟であるという縁からそれぞれに累進し、江戸時代にはいずれの家系も大名に列しました。もっとも嫡統である康元の家系は当初城主であったものの断絶を重ねて旗本に家格を落とし、勝俊の家系は無城大名止まりであったのに対し、末弟・定勝の家系のみ3家が城主大名として幕末まで続きました。

定勝は兄弟中もっとも長命で、小南3,000石を振り出しに遠江掛川藩3万石、伏見城代5万石、伊勢桑名藩11万7,000石と栄進しました。定勝には6人の男子がおり、次男定行は伊予松山藩15万石の祖となり、三男・定綱は、美濃大垣藩6万石から伊勢桑名藩11万石の祖。子孫は一時、越後高田藩・陸奥白河藩に移されたこともありますが、幕末には桑名藩主でした。なお、松平定信は田安徳川家からこの家系に養子に入りました。

四国の松山市へ行くと、久松松平家が長く藩主を務めていたこと、この久松家のルーツは知多郡阿久比町で近所であることを思うと何故かしら自慢気な気持ちになります。

久松松平家は、於大の方の息子・家康の異父弟という家系を生かして、江戸時代を生き抜きました。