2018年5月3日-2 村木砦 (2018-05-05)

2018年5月3日村木砦

2018年5月3日 村木砦

 

織田信秀と同盟をテコに知多半島を統一した水野信元に対し、駿河・遠江・三河の三国の太守・今川義元の狙いは尾張への浸食・まずは知多半島への侵攻です。

織田信秀の晩年病で伏せて救援できずに安祥城を今川方に奪還されたことにより今川家の三河支配は確実なものとなりました。信秀の死後(1551年)、信長が家督を相続するに当たり織田家は内紛状態になりました。そのような状況の為、織田方であった鳴海城主・山口教継父子が今川方の傘下にはいり(1552年)、その策略により大高城、沓掛城が今川方に奪われ(1553年)、知多半島西側の寺本城の花井氏も今川方に転じました。翌年には重原城も今川方に攻略され、水野信元の刈谷城と異父弟・水野忠分の緒川城ののど元に村木砦を築きました。(1553年)

水野信元は信長に救援要請に対し、信長は、信長公記で有名な那古野城の守りを斎藤道三の援軍に任せ熱田湊から、強風をついて船出し、知多半島に上陸。本陣を村木神社に置き、村木砦を攻撃・戦いに勝利(1554年1月)して今川勢を知多半島から追い払うことに成功します。

その後、信長は尾張統一を進めるとともに今川勢に対しても反転攻勢。笠寺城を奪還し、鳴海城には丹下砦・善照寺砦・中島砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築き圧迫したため、今川義元は自ら大軍を率い尾張を目指して東海道を西進。信長が奇襲により勝利した桶狭間の戦い(1560年)につながります。

村木砦の戦いは、結果的に織田と今川の最終決戦となった桶狭間の戦いの前哨戦の位置づけであったと言えると思います。この戦いで織田方が破れていた場合、多分、水野信元は、信長を見限り今川方に与していたはずです。そうすると、大高城と鳴海城の付城も機能しなくなり、織田方の最前線は愛知郡内での戦いになったことでしょう。