2018年5月3日-1 緒川城址 於大公園 (2018-05-05)

2018年5月3日 緒川城 於大公園

2018年5月3日 緒川城址 於大公園

 

知多郡東浦町で於大まつりが毎年4月の第3土曜日が開催されます。本当はその日に知多半島の城址巡りをするつもりで東浦町役場まで来たのですが、残念ながら駐車できずに断念しました。それで、亀崎潮干祭りに行った後の今日(5/3)廻ることにしました。

天下人・家康の生母:於大については。松平氏に離縁された後に再嫁した久松氏の本拠地:知多郡阿久比町と生地で幼少期を過ごした東浦町及び刈谷市の3市町で本家争いがありましたが、東浦町が一歩リードといってもいいかなという状況です。何故なら、総面積12.1ヘクタールに及ぶ東浦町民の憩いの場となっている「於大公園」と多くの人を集める「於大まつり」により人々の印象は、於大の方=東浦町となったような気がします。

家康の生母:於大は家康を生んだ(1543年)後、松平氏から離縁(1544年)されるのですが、それは、松平・今川陣営だった於大の父:忠政が亡くなった後に家督を継いだ異母兄:信元が織田氏に協力(織水同盟)したからです。その後於大は、知多郡坂部(阿古居)城主・久松俊勝に再嫁(1547年)するのですが、その後の話は坂部城址のところでしたいと思います。

やはり、緒川城では於大の異父兄・水野信元について語らなくてはと思います。

信元が悲運の武将だということを知っていましたが、知多半島を統一したことは知りませんでした。於大が三河の旗頭・松平広忠と離縁の原因となる織田信秀の三河侵攻に協力し、自らは知多半島へ侵攻しました。於大を阿久比の久松氏に嫁がせたのも(1547年)その一環です。また、大野・内海を領する佐治氏とも姻戚を結んで、知多半島の覇者となったようです。

水野信元は信長と家康の「清洲同盟(1562年)」を仲介し、家康が苦戦した三河一向一揆(1563年)では家康に援軍を出して助け、信長の上洛(1568年)に従軍。姉川の戦い(1570年)において佐和山城を攻落。三方ヶ原の戦い(1572年)に援軍として参陣。長島一向一揆討伐(1574年)、長篠の戦い(1575年)に参加。当時の石高は24万石と称されています。

しかし、最後は信長の武将・寄り親:佐久間信盛の讒言により武田勝頼の武将の秋元信友との内通の疑いで、信長の命を受けた甥の家康によって岡崎大樹寺で殺害(1576年)されました。3年後におこる家康嫡男・松平信康とその母・築山殿粛清(1579年)につながる事件かもしれません。

佐久間信盛追放後、信長は、信元が冤罪だったとして、家康の下にいた信元の末弟・忠重を呼び寄せて、旧領を与え水野家を再興させました。

家康は水野信元の三男を徳川家家臣土井利昌の養子とし、利昌には実子で長男の元政(甚三郎)がいましたが、それを差し置いて利勝が土井家の家督を継いでいます。徳川秀忠が生まれると(1579年)安藤重信、青山忠成と共に傅役を命じられ、出世を重ね最終的に下総古河16万石に加増移封(1633年)され、武家諸法度の制定、参勤交代制の確立など、江戸幕府初期の幕政確立に貢献しました。3代徳川家光が、酒井忠勝と共に大老に格上げ(1638年)されたことが記録されています。江戸時代に大老になれるのは井伊家・酒井家(雅樂頭流酒井家)・土井家・堀田家の4家とされています。

土井利勝を家康が重用・栄達させたのは、水野信元の実質的な嫡子として信長の命とはいえ、罪無き信元を討った償いの意味もあったかもしれないと思います。