2018年5月10日 守山城址 (2018-05-19)

2018年5月10日守山城址

2018年5月10日 守山城址

 

 守山城に寄る前に、3月末に名古屋城にオープンした金シャチ横丁へ行ってきました。正門側に「義直ゾーン」東門側に「宗治ゾーン」があります。今まで名古屋城に行っても昼食に困りましたが、これからは「名古屋めし」が食べられるようになりました。もう少し規模を拡大して伊勢神宮の「おかげ横丁」のようになるといいなあと思います。

今回は、徳川家康の祖父:松平清康と織田信長の叔父:織田信光に焦点を当てたいと思います。

尾張守山城といえば、『森山崩れ』でしょう。『信長公記』では守山崩れ、『三河物語』では森山崩れと記載されているようですが、徳川家康の祖父の松平清康が家臣に討たれた事件なので『三河物語』の『森山崩れ』と記載します。その「森山崩れ」のあった地です。

 松平清康は、家康の祖父で、生誕日も永生8年9月7日(1511年9月28日)と明らかですし、死没日も天文4年12月5日(1535年12月29日)となっており、わずか25年の生涯でしたが、その生涯は輝かしい戦績です。

家督を継いだのがわずか13歳です。大永3年(1523年)に隠居の祖父・道閲(長親)や一門衆が父・信忠を隠居させて、子である竹千代(清康)に家督を継承させ、13歳で「安城松平家4代目」。初代:親氏から数えて7代目の当主になりました。

その後、本拠地を生誕地の安祥城から、宗家たる岡崎松平家の岡崎城を奪って拠点を移し、西三河を平定後、東三河の今橋城(後の吉田城)を攻め落とし、渥美郡の田原城、設楽郡の山家三方衆の田峯城、長篠城、亀山城等を服属させ、八名郡の宇利城を攻め滅ぼして(1529年・18歳)三河国を統一しました。

享禄3年(1530年)には尾張国へ再出兵、岩崎城 を落とし岩崎郷(日進市岩崎町)を、品野城を攻め滅ぼして、品野郷(瀬戸市品野町)を奪いました。

そしてこの勢いに乗った清康は、斎藤道三と織田を挟撃するため、1万余りの大軍を率いて尾張に進軍。天文4年(1535年)12月、清康は、織田信秀の弟の織田信光の守る守山城を攻めました。この守山の陣の最中の12月5日(12月29日)、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られ即死し、生涯をおえました。

この時の守山城主は、織田信秀の弟:信長の叔父の信光です。『三河物語』によれば、信秀打倒を目指す三河の松平清康に内応して、清康を居城の守山城に呼び寄せたことになっています。清康と反目していた松平信定の娘を妻にしていたことから、清康の家臣からは疑惑を持たれもしたが、結局『森山崩れ』により清康を落命させ、織田信秀の危機を救いました。この時信光は永正13年(1516年)生まれですので20歳です。

信光は、信長の叔父でもあります。兄の信秀なき後、信長の代になると信長に協力し、策略により清洲城を奪い、信長に清洲城を渡して、譲られた那古屋城にはいり、弘治元年11月26日(1556年1月7日・40歳)『甫庵信長記』によると、近臣で北の方(信光夫人)と通じていた坂井孫八郎により殺害されたという不慮の死を遂げています。

織田信長の天下取りの第一歩、尾張統一に叔父:織田信光は最大の貢献者です。

織田信光の生涯を見ると、何故か「内応」と「裏切り」の匂いがします。『森山崩れ』の際には「内応」して、松平清康を誘い込み偶然か必然化はわかりませんが、家臣が清康を殺害したために、兄(信長の父):信秀の危機を防ぎました。

清洲城を奪うときも「内応」するふりをして清洲城の中に入り込んで乗っ取りして、信長に清洲城を渡しています。結局、自身は信長より譲られた那古屋城で「裏切り」を怖れた信長の策略で亡くなったともいわれています。

松平清康の孫である家康に与えた最高のものは、安城松平4代目当主が安祥城から、宗家たる岡崎松平家の岡崎城を奪って松平宗家7代目になり、三河を統一したことです。結果、今川から独立したときに家康は三河統一の大義名分を得たといえます。そうでなければ、『成り上がりもの』としての三河統一は困難を極めたものと思われます。

信長にも家康にも、『成り上がりもの』のイメージはありません。これは、織田信光・松平清康のおかげといっても良いかもしれません。しかし、領国の統一にはこのイメージが大事ではないかと思います。