2018年5月10日 末森城址 (2018-05-19)

2018年5月10日末森城址

2018年5月10日 末森城址

 

 末森城址一帯は現在、城山八幡宮となっています。東西の幹線道路:末盛通が神社のすぐ南側を通っていますので、数年前までこの道路を車でよく行き来していました。しかし、この城山八幡宮に来るのは初めてです。直ぐに寄れるところでも仕事中にはやはり来られないですね。

 ただ、この城山八幡宮は、織田信秀が天文17年(1548年)に築城したときの深さ7mほどの空堀跡なで、遺構が残っており、標高は43mの丘ですが、なかなかの規模であり、攻城されたことはないようですが、難攻不落の城ではないかと思われます。また、二の丸跡地に昭和戦前の教育施設:旧・昭和塾堂が建っています。名古屋城天守閣が5月6日に閉鎖された今、代わりに内部公開して欲しい施設です。

このお城では、信長の父・織田信秀の晩年を考えて見たいと思います。

信秀は、天文17年(1548年・38歳)に末森城(名古屋市千種区)を築いて居城を移し、天文21年(1552年・享年42歳)3月3日、末森城で死去しました。末森城でのこの4年間に織田家の勢力はずいぶんと衰えました。

 

末盛城築城の年:天文17年(1548年)3月に信秀は安祥城城主の信広を先方として、4000の兵で岡崎城攻略を目指しましたが、今川義元も松平氏救援のため約1万の兵を大将:太原雪斎、副将:朝比奈泰能にて出陣させたために、第二次小豆坂の戦いになりました。結果は、織田勢は総崩れ、再び矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなり、今川・松平連合が勝利を収めました。

 

この年に松平広忠が家臣の手により刺殺されました。松平氏の次期当主である竹千代は織田氏の人質となっていたので、岡崎城は無主の状態になりました。そこで翌天文18年(1549年)、太原雪斎は11月に今川軍と松平軍を率いて安祥城を攻略(第三次安城合戦)、信広を捕虜として、竹千代と交換。今川方は、竹千代を駿府で人質とし、岡崎には代官を置きました。第三次安城合戦時には信秀は末盛城で病に伏し、安祥城への救援に向かうことができなかったようです。結果、西三河での勢力を失いました。また、このころ美濃での拠点大垣城を斎藤道三に取り戻されています。

 

天文21年(1552年・享年42歳)3月3日、末森城で死去。信秀の死に前後して鳴海城・笠寺城(それぞれ名古屋市緑区・南区)を守る山口氏が今川方に投降し、逆に今川氏の勢力が尾張側に食い込むこととなりました。

 信秀は智勇に優れた武将であり、守護代二家のうちの大和守家下の庶流という低い地位から尾張各地、そして一時は西三河まで支配し尾張国を代表する勢力となり、信長の飛躍の基盤を作りましたが、晩年は今川義元の最盛期と重なり、また、尾張では同族、清洲城、犬山城等に多くの信長の敵対勢力を残したまま亡くなりました。更に、末森城には信長の尾張統一の最大の障害になった土田御前と信之(信勝)を残しました。

ただ晩年、信秀は美濃の斎藤道三と和睦して、信長と濃姫の婚姻を決め、天文18年(1549年)に信長の正室として迎えたことが、結果的に信長への最大の援助になりました。これは歴史を知る者だけが言えることかもしれませんが・・・。