登城でござる

2018年8月19日小田原城

 夏の家族旅行のついでに、小田原城に来ました。ついではいけないとも思いますが、息子以外の家族、女房・娘・他の方は残念ながらお城には興味がありません。今は歴女が闊歩している世の中なのになかなか一緒に城めぐりしてくれるお友達はいません。

お城への興味で思うことは、ある程度歴史がわかっていないとお城へ登城しても面白くありません。多少の知識があると、興味があることについてはそれが積みあがっていきます。お城に登城するのも知識が積みあがっていくのが面白いと思います。

さあ、小田原城と言えばなんでしょうか。

やはり、後北条5代の本拠地がまず思い浮かぶでしょう。戦国時代の関東の覇者になるのですが、何よりこの小田原城は、戦国の大スター:上杉謙信、武田信玄に攻撃を受けて撃退した歴史を持っています。残念ながら、秀吉に後北条家は滅ぼされてしまいますが、20万人以上と言われる軍勢に囲まれている光景・・・。もしも、タイムマシンがあって何が見たいかと言えば、この小田原城の籠城戦観たいと思いませんか?

相模湾には、遠く九州勢或いは四国勢の長曾我部等が船を浮かべています。攻め込む、秀吉勢は徳川家康、前田利家、等オールスターです。旗印を見てあそこの陣には誰がいると見てみたいと思います。まあ、実際に当事者ではないのでそう言っているだけで、合戦というのは殺し合いですから、タイムマシンでいったら正視できないかもしれません。

結局、最終的には家康の天下になり、小田原は大久保忠隣に預けられます。小田原は江戸の喉元なのでよほど信頼を寄せる家臣が城主になる城でしたが、何故か大久保忠隣は改易になってしまします。大久保長安の事件に連座したと言われていますが、彦根藩預かりになってそこで没していますが、子孫はご赦免になり、再び小田原城主に返り咲いています。江戸時代でも珍しい出来事かと思います。

三河大久保一族は、まだ家康が三河統一戦を戦っているときに、よく出てきます。有名なのは大久保忠世、忠佐の兄弟です。常に家康の手足となって合戦で手柄を立てています。しかし、徳川四天王と言われた、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政、井伊直政の4人には差をつけられていたようです。

それに大久保忠隣の改易です。ですから、三河物語を著わした大久保彦左衛門の嘆きはそこにあったのだと思います。でも、大久保彦左衛門は嘆いて三河物語を著わしたことにより、四天王より有名になり後世に名を残しました。一心太助と大久保彦左衛門のお話はみんなが知っています。何が後世に名を残すかわかりませんね。

今回の小田原城に来て初めての発見は大正天皇の御用邸があったということです。残念ながら関東大震災で大破してしまいましたが、やはり小田原は江戸・東京の喉元だなと思いました。

お城へ登城するのは面白いです。

2018年6月11日 名古屋城本丸御殿

 

 6月11日は月曜日でした。本丸御殿の完成披露は6月8日の金曜日でした。ですから、この日の前日、前々日の土日は人込みと取材陣等超満員でなかなか自由に観ることができない状態のようでした。この日は前日の三分の一の人出だと係りの方はおしゃっていました。

本丸御殿を観る際に、函館の奉行所を観ることをお勧めします。私は今年の4月に函館五稜郭へ行って、箱館奉行所を観てきました。あちらも新しく立派な建物ですが、やはり、一介の奉行所です。本丸御殿と比べては気の毒です。観て欲しいのは、天井です。本丸御殿には、美しい天井が沢山あります。確かに戦災時に一時的に避難されていたために生き残った障壁画の複製画は素晴らしいものですが、『天井を見ればわかる、部屋の格式』箱館奉行所の天井はほとんどが普通の格天井(ごうてんじょう)です。部屋のランク付けはほとんどなかったのでしょう。名古屋城本丸御殿の対面所の上段の間は「黒漆二重折上げ小組格天井」に。升目を作る部材である格縁(ごうぶち)の中に細かい格子を組み入れた小組格天井をさらに高く折り上げ、漆塗りが施されています。

是非とも、各部屋の天井の違いをみて部屋の格式を想像してみてください。現在の日本の住宅でも広く使われている「竿縁天井(さおぶちてんじょう)」から始まり、45~90センチ程度の升目に組まれた「格天井(ごうてんじょう)」、格天井の中央部分を周辺よりも高く仕上げる「折上げ小組格天井」、さらにもう一段上げた「二重折上げ小組格天井」といった具合に格式が上昇。そこにどんどん漆や金具などの細工や蒔絵などが施され、もうこれ以上ない、というほどの豪華な意匠の天井を目にしたときには、本丸御殿の一番奥の上洛殿にたどり着いていることでしょう。

わからなくてもいいから、天井を観に来てください!建築を学んだ人でもわからないのだからわからないのは当たり前です。

名古屋城の本丸御殿は1615年に家康九男の義直が春姫を迎えるに当たって作った御殿です。家康は大坂夏の陣へ向かう際に、義直と春姫の婚儀をここ「対面所・下御前所」で行っています。しかも1620年には、藩主:義直は二の丸御殿に移居し、本丸御殿は2代将軍秀忠(1626年)・3代将軍家光(1634年)が上洛の際の宿泊施設として整備されるのです。将軍の宿舎ですから豪華なのは当たり前です。

そして、その本丸御殿と天守が江戸時代から明治・大正・昭和と生き残ったのです。

先日、大阪城は3度も落城している不運の城と書きましたが、それに比べると名古屋城は幸運の城でした。何故?「でした。」と過去形になるのは、先の戦争で1945年5月14日8時20分ごろ、アメリカ軍のB-29が投下した焼夷弾により大小天守、本丸御殿等が焼失してしまったからです。

名古屋城天守は、徳川家康が全国諸大名を動員した「天下普請」として1612年に天守が完成してから1945年に焼け落ちるまで約333年無事に生き残りました。これは、江戸時代初期において名古屋城(1612年)、大坂城(1626年)、江戸城(1638年)3つの巨大天守のうち江戸城は1657年の明暦の大火により焼け落ち、それから再建されることはありませんでした。また、大坂城も1665年に落雷によって消失し、以後天守を持たない城になりました。名古屋城天守の場合は奇跡と言っていいことかもしれません。

1959年に再建天守閣がSRC(鉄骨鉄筋コンクリート造)により再建され、今年(2018年)5月まで一般公開されていましたが、2019年から取り壊され、木造復元される予定です。木造復元には批判もあります。石垣の保全・修復計画等で文化庁の認可が受けられず、計画通りに2022年12月の完成は難しいかもしれませんが、1945年まで建っていた木造天守の復元です。写真も実測図もあるのは名古屋城だけです。大坂城、江戸城は、復元しようにも、写真も実測図もありません。震災で壊れた熊本城天守の復元が話題になっていますが、復元されるのは1960年にRC造で外観復元されたものです。写真はありますが実測図は無いので木造復元はできません。

名古屋城天守の木造復元には、名古屋市民にも冷めた見方があります。税金の無駄使いだという意見もあります。お城に興味のない人にはそうかもしれません。私は定年退職後の趣味としていろいろな城跡に行きます。石碑だけの城跡もあれば、立派な城を模した博物館になっているお城もあります。それぞれの自治体が工夫を凝らして保全しています。私がいいなぁと思った城跡は愛知県西尾市の東条城です。木柵と見張り台だけのお城です。歴史通りでは無いかもしれませんが、なんとなく歴史を感じる城跡でした。名古屋城の天守の木造復元は、ある意味、歴史の復元です。将来、子孫に残せる立派な文化遺産に成り得ると思います。是非も、うまく進めて欲しいと思います。

2018年6月11日名古屋城本丸御殿

2018年6月2日大阪城

2018年6月2日 大阪城

 

  大阪城は、3度落城しています。

1度目は大坂石山本願寺があった石山合戦です。
1570年から1580年までの10年間浄土真宗本願寺の顕如と織田信長が戦い、最終的には「勅命講和」により本願寺は大阪退去しました。引き渡し直後に出火し、三日三晩燃え続けて石山本願寺を完全に焼き尽くしました。各地の一向一揆はその勢いをなくし、宗教勢力は政治にかかわらないという新しい日本の伝統ができました。もし、この時、宗教勢力と対峙する武将が信長で無かったら、宗教勢力と妥協して、現在の日本でもイスラム教国のように宗教勢力が国政に影響を与えている国になっていたかもしれません。

2度目の落城は、「太閤はんのお城」の落城です。築城は1583年(天正11年)。落城は1615年(慶長20年)の大坂夏の陣ですから、「太閤はんのお城」はおよそ30年ちょっとしか建っていませんでした。 
まずは、慶長19年11月19日(1614年12月19日)大阪冬の陣開戦。有名な真田丸の戦い(12月3日、4日)で豊臣軍が徳川軍を撃退しましたが、その後は完全に攻囲され、大砲による砲撃を受けたために和議を行い、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城になりました。
慶長20年3月(1615年4月)に徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求。4月家康は、駿府を出て、徳川義直婚儀のために名古屋に向かいました。その際に大野治長の使者が来て浪人の解雇も豊臣家の移封も拒否したことにより、大阪夏の陣が始まります。ただ、家康は余裕です。4月12日には名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われています。そのついでに豊臣家を滅ぼしました。豊臣秀頼とその母淀殿は、山里丸にあった櫓にひそみ、最後を向かえました。

3度目の落城は幕末です。二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していましたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍鳥羽・伏見の戦いの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されました。この前後の混乱のうちに出火し、御殿や外堀四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失しました。
しかし天守閣については1665年(寛文5年)に落雷によって消失し、以後天守を持たない城になっていました。1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城修築工事が開始された。大坂城修築工事は1620年(元和6年)からの第一期工事で西の丸、二の丸北部・東部、三の丸、1624年(元和10年)からの第二期工事で本丸、山里丸、1628年寛永5年)からの第三期工事で二の丸南部、と実に3期にわたる工事を行って1629年(寛永6年)に完成しました。結局、徳川の天守も36年で姿を消したことになります。

今の天守は徳川の天守を模して1931年(昭和6年)にSRC造で完成しました。終戦時の空襲にも天守台を損傷したものの破壊を免れました。ということは、今の天守閣は87年以上建っており、天守閣だけを考えれば豊臣天守・徳川天守より永く建っています。

このような歴史を顧みれば、大阪城は悲劇のお城です。

よく、大阪の人々が東京への対抗意識から、今の大阪城を「太閤はんのお城」と言いますが、それは間違いです。なぜなら、今の天守は徳川のお城の天守を模したものだからです。
そして、天下人:豊臣秀吉も大阪出身ではありません。尾張中村の百姓の倅です。また、大阪が政治の中心になったこともありません。日本の時代区分はその時代の首都の名前を付けますが、「安土桃山時代」という時代名称はありますが、「安土大坂時代」とは言いません。

何が言いたいのか?

大阪城をこよなく愛して「太閤はん」を身内扱いしてくれる大阪人に、「太閤はん」の出身地の愛知県人としとして感謝しています。最近は晩年のことを思い出して、あまり秀吉のことが好きではありませんが、それでも中国の大返し(1582年)から小田原征伐(1590年)までたった8年での天下統一した秀吉は凄いと思います。合戦だけで無く、清須会議・家康を従わせたことも含めて天下統一事業は素晴らしいと思います。

 

2018年5月12日五稜郭・箱館奉行所

2018年5月12日 五稜郭・箱館奉行所

 

 今回の二泊三日の北海道旅行のメインは、花の五稜郭でした。函館には、就職して1年目か、その翌年のお盆休みに友達と一緒に来たことがあります。今から40年ほど前の話です。そのころは、お金もなかったので、一番安いお盆の帰省夜行バスで青森まで来て、青函連絡船で函館まで来ました。確か、函館山に登った記憶があります。五稜郭には来なかった記憶があります。お城は好きでしたが、若いからいつでも来られると思って40年経ってしましました。

40年ぶりの函館は。観光都市になっていました。五稜郭へは、やっと行ける、しかも、北海道の桜の咲く季節で花の五稜郭が見えると思ってやってきましたが、五稜郭の桜は北海道で一般的なエゾヤマザクラでは無くソメイヨシノです。函館の例年の開花日は4月30日で、つぼみから満開まで一週間、満開から散るまで一週間ですから、5月12日だと例年でもやっと間に合うぐらいでした。今年は開花が4月20日ごろでしたの、花の五稜郭は残念ながら見られませんでした。

歴史好きな私ですが、五稜郭で箱館戦争のことを書くと、結構な文字数になるので止めます。あまり、幕末の戊辰戦争は好みではありません。日本の合戦はチェスと違い、将棋のように降伏した者に対して寛大で・味方にして持ち駒になるという約束事があります。薩長を中心とした新政府軍はその約束事を反故にして、会津藩に戦争を仕掛けます。仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟は、会津藩に同情して会津藩を守ろうとしました。薩長中心の新政府軍は、他藩の兵を使って攻め滅ぼします。それで、成立したのが明治政府です。官軍は、賊軍がいて初めて官軍になれるのですから、賊軍を作らねばならなかったからですね。

今回、気になって五稜郭を調べてみたら、実は五稜郭は日本にふたつ有って、もうひとつは龍岡五稜郭と云って長野県佐久市田口にあり、現在、佐久市立田口小学校になっています。できれば、生きているうちに一度行ってみたいと思います。そしてこの城を築城したのが、三河奥殿藩の(大給)松平乗謨(まつだいら のりかた:維新後は大給 恒・おぎゅう ゆずる)です。この人は、非常に開明的な人で、江戸幕府の若年寄・老中・陸軍奉行・陸軍総裁を歴任して、フランス式の軍政を導入し農民兵を基礎とした幕府軍を編成しています。ちなみに、勝海舟が、松平乗謨の陸軍総裁の後任です。また、龍岡五稜郭へ移転前の奥殿陣屋(愛知県岡崎市奥殿町雑谷下10)へも現存しているようですので近いので行ってみたいと思います。

箱館五稜郭から龍岡五稜郭へ、龍岡五稜郭から奥殿陣屋へ話が飛ぶ、否、拡がるから日本の歴史は面白い・興味はつきません。

また、箱館奉行所は、幕末の1864年に建てられ、3年後大政奉還により幕府崩壊、明治4年(1871年)に明治政府により取り壊されています。わずか、7年ほどしかたっていなかった建物を当時と同じ材料と・工法により復元・完成したのが2010年6月です。ということは、現在2018年ですから、幕末~明治時代に建っていた期間を抜いたのではないかと思います。建物は素晴らしい日本建築です。この五稜郭にわずか7年ほどしか建っていなかった箱館奉行所を再建して、函館観光の目玉にした地元に敬意を表します。

ただ、比べるべきではないかもしれませんが、この建物と名古屋城の本丸御殿を比べてみると、本丸御殿の豪華さが際立ちます。仕方ないですね。だって箱館は奉行所として建てられました。名古屋城本丸御殿は、将軍の娘・春姫を迎えるために建てられ、将軍が上洛するときに宿泊する迎賓館になりました。しかし、良いですね。箱館奉行所も!お金もかかって難しい仕事ですがどちらも素晴らしいです。

更に日本建築の再建を見たいと思います。名古屋城天守閣の木造再建!期待しています。江戸時代に建てられた名古屋城天守閣を再建してもらいたいと思います。

2018年5月21日 古渡城址

2018年5月21日 古渡城址

 

 古渡城址は、現在、真宗大谷派名古屋別院いわゆる東別院と呼ばれており、古渡城の時は、二重の堀で囲まれていたといわれていますが、現在周りは真っ平であり、ここがお城だとすぐわかる空堀に囲まれた末森城址:現在、城山八幡宮とは様相が異なっています。このお城を築城して本拠地を古渡城に移したのは天文8年(1539年)で、それから、末森城に移るまでの(1548年)10年間が、信長の父:信秀の全盛期です。

 このお城では、信長の父:織田信秀を考えて見たいと思います。

織田信秀。生誕永正8年(1511年)(永正5年説・7年説あり)死没は天文21年3月3日(1552年4月8日)40余年の生涯でした。勝幡城主で清洲三奉行の一人織田信定の長男として生まれ、大永6年4月(1526年・15歳)から7年(1527年・16歳)の6月までの間に家督を譲られて当主となっています。

天文4年(1535年)12月に『森山崩れ』が起こります。三河を統一した松平清康が、織田信秀の弟の織田信光の守る守山城を攻めました。この守山の陣の最中の12月5日(12月29日)、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られ即死し、25歳の生涯をおえました。若くして家督を譲られた清康と信秀ですが、清康は若くして斃れ、信秀は清康の死により生き残ります。尚、天文3年(1534年)には信長が誕生しています。

 天文7年(1538年)ごろ、今川氏豊の居城の那古野城(名古屋市中区、のちの名古屋城)を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大しました。

その後も勢力の拡大にともなって天文8年(1539年)に古渡城(名古屋市中区)を築き居城として二つ目の経済的基盤となる熱田を支配しました。

さらに、混乱する松平氏の隙を突いて三河に侵攻し、天文9年(1540年)には安祥城を攻略し、支配下に置き長男の織田信広を置きました。松平氏は今川義元の支援を受けたが、天文11年(1542年)の第1次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利したとされますがこの戦いがあったか定かではありません。

信長の幼年時か、天文15年(1546年・信長12歳)の元服前に那古野城を譲っています。そして天文17年(1548年)に末森城(名古屋市千種区)を築いてさらに居城を移しています【勝幡城⇒那古野城(1538年)⇒古渡城(1539年)⇒末森城(1548年)】。これは、当時の戦国大名は生涯あるいは代々拠点城を動かさないことが多く、特異な戦略です。この戦略が後の信長の拠点城を清洲⇒小牧⇒岐阜⇒安土と移していく戦略のもとになっています。

信秀の古渡城のいた約10年間が、津島湊・熱田湊を支配し経済的にも軍事でも発展した時期です。1540年には第一次安城合戦により安祥城を攻撃し奪い第二次安城合戦(1545年)にも勝利し、第三次安城合戦(1549年)まで支配しました。更に天文11年(1542年)には、越前の朝倉孝景と連携し、美濃に兵を出し斎藤道山と戦い、一時大垣城を奪っています。

信秀はその頂点で、主家の大和守家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていきました。しかし信秀は終末まで守護代奉行であり、実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤、松平、今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君であった守護代家、守護家は維持したままで、尾張国内の大和守家や他の三奉行や犬山の織田信清など何度も敵対し争ったり、反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとせず、それらを抱えたまま国外の敵と戦うという限界があり、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあったと指摘され、それらの併呑や排除は信長の代に行いました。信秀側の勢力が削がれ困難の続く中、天文21年(1552年)3月3日、末森城で死去しました。

信長の天下取りの礎となった信秀ですが、信長の天下取りに一番の貢献をしたのは津島湊・熱田湊を支配したことによる経済力です。その経済力を生かした信長は、銭で雇った兵で戦う方法を生み出して天下取り一歩手前まで行きましたが、信秀が信長に伝えられなかった家族愛、一族・部下との信頼関係の構築ができずに果てたのかも知れません。

2018年5月10日末森城址

2018年5月10日 末森城址

 

 末森城址一帯は現在、城山八幡宮となっています。東西の幹線道路:末盛通が神社のすぐ南側を通っていますので、数年前までこの道路を車でよく行き来していました。しかし、この城山八幡宮に来るのは初めてです。直ぐに寄れるところでも仕事中にはやはり来られないですね。

 ただ、この城山八幡宮は、織田信秀が天文17年(1548年)に築城したときの深さ7mほどの空堀跡なで、遺構が残っており、標高は43mの丘ですが、なかなかの規模であり、攻城されたことはないようですが、難攻不落の城ではないかと思われます。また、二の丸跡地に昭和戦前の教育施設:旧・昭和塾堂が建っています。名古屋城天守閣が5月6日に閉鎖された今、代わりに内部公開して欲しい施設です。

このお城では、信長の父・織田信秀の晩年を考えて見たいと思います。

信秀は、天文17年(1548年・38歳)に末森城(名古屋市千種区)を築いて居城を移し、天文21年(1552年・享年42歳)3月3日、末森城で死去しました。末森城でのこの4年間に織田家の勢力はずいぶんと衰えました。

 

末盛城築城の年:天文17年(1548年)3月に信秀は安祥城城主の信広を先方として、4000の兵で岡崎城攻略を目指しましたが、今川義元も松平氏救援のため約1万の兵を大将:太原雪斎、副将:朝比奈泰能にて出陣させたために、第二次小豆坂の戦いになりました。結果は、織田勢は総崩れ、再び矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなり、今川・松平連合が勝利を収めました。

 

この年に松平広忠が家臣の手により刺殺されました。松平氏の次期当主である竹千代は織田氏の人質となっていたので、岡崎城は無主の状態になりました。そこで翌天文18年(1549年)、太原雪斎は11月に今川軍と松平軍を率いて安祥城を攻略(第三次安城合戦)、信広を捕虜として、竹千代と交換。今川方は、竹千代を駿府で人質とし、岡崎には代官を置きました。第三次安城合戦時には信秀は末盛城で病に伏し、安祥城への救援に向かうことができなかったようです。結果、西三河での勢力を失いました。また、このころ美濃での拠点大垣城を斎藤道三に取り戻されています。

 

天文21年(1552年・享年42歳)3月3日、末森城で死去。信秀の死に前後して鳴海城・笠寺城(それぞれ名古屋市緑区・南区)を守る山口氏が今川方に投降し、逆に今川氏の勢力が尾張側に食い込むこととなりました。

 信秀は智勇に優れた武将であり、守護代二家のうちの大和守家下の庶流という低い地位から尾張各地、そして一時は西三河まで支配し尾張国を代表する勢力となり、信長の飛躍の基盤を作りましたが、晩年は今川義元の最盛期と重なり、また、尾張では同族、清洲城、犬山城等に多くの信長の敵対勢力を残したまま亡くなりました。更に、末森城には信長の尾張統一の最大の障害になった土田御前と信之(信勝)を残しました。

ただ晩年、信秀は美濃の斎藤道三と和睦して、信長と濃姫の婚姻を決め、天文18年(1549年)に信長の正室として迎えたことが、結果的に信長への最大の援助になりました。これは歴史を知る者だけが言えることかもしれませんが・・・。

2018年5月10日守山城址

2018年5月10日 守山城址

 

 守山城に寄る前に、3月末に名古屋城にオープンした金シャチ横丁へ行ってきました。正門側に「義直ゾーン」東門側に「宗治ゾーン」があります。今まで名古屋城に行っても昼食に困りましたが、これからは「名古屋めし」が食べられるようになりました。もう少し規模を拡大して伊勢神宮の「おかげ横丁」のようになるといいなあと思います。

今回は、徳川家康の祖父:松平清康と織田信長の叔父:織田信光に焦点を当てたいと思います。

尾張守山城といえば、『森山崩れ』でしょう。『信長公記』では守山崩れ、『三河物語』では森山崩れと記載されているようですが、徳川家康の祖父の松平清康が家臣に討たれた事件なので『三河物語』の『森山崩れ』と記載します。その「森山崩れ」のあった地です。

 松平清康は、家康の祖父で、生誕日も永生8年9月7日(1511年9月28日)と明らかですし、死没日も天文4年12月5日(1535年12月29日)となっており、わずか25年の生涯でしたが、その生涯は輝かしい戦績です。

家督を継いだのがわずか13歳です。大永3年(1523年)に隠居の祖父・道閲(長親)や一門衆が父・信忠を隠居させて、子である竹千代(清康)に家督を継承させ、13歳で「安城松平家4代目」。初代:親氏から数えて7代目の当主になりました。

その後、本拠地を生誕地の安祥城から、宗家たる岡崎松平家の岡崎城を奪って拠点を移し、西三河を平定後、東三河の今橋城(後の吉田城)を攻め落とし、渥美郡の田原城、設楽郡の山家三方衆の田峯城、長篠城、亀山城等を服属させ、八名郡の宇利城を攻め滅ぼして(1529年・18歳)三河国を統一しました。

享禄3年(1530年)には尾張国へ再出兵、岩崎城 を落とし岩崎郷(日進市岩崎町)を、品野城を攻め滅ぼして、品野郷(瀬戸市品野町)を奪いました。

そしてこの勢いに乗った清康は、斎藤道三と織田を挟撃するため、1万余りの大軍を率いて尾張に進軍。天文4年(1535年)12月、清康は、織田信秀の弟の織田信光の守る守山城を攻めました。この守山の陣の最中の12月5日(12月29日)、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られ即死し、生涯をおえました。

この時の守山城主は、織田信秀の弟:信長の叔父の信光です。『三河物語』によれば、信秀打倒を目指す三河の松平清康に内応して、清康を居城の守山城に呼び寄せたことになっています。清康と反目していた松平信定の娘を妻にしていたことから、清康の家臣からは疑惑を持たれもしたが、結局『森山崩れ』により清康を落命させ、織田信秀の危機を救いました。この時信光は永正13年(1516年)生まれですので20歳です。

信光は、信長の叔父でもあります。兄の信秀なき後、信長の代になると信長に協力し、策略により清洲城を奪い、信長に清洲城を渡して、譲られた那古屋城にはいり、弘治元年11月26日(1556年1月7日・40歳)『甫庵信長記』によると、近臣で北の方(信光夫人)と通じていた坂井孫八郎により殺害されたという不慮の死を遂げています。

織田信長の天下取りの第一歩、尾張統一に叔父:織田信光は最大の貢献者です。

織田信光の生涯を見ると、何故か「内応」と「裏切り」の匂いがします。『森山崩れ』の際には「内応」して、松平清康を誘い込み偶然か必然化はわかりませんが、家臣が清康を殺害したために、兄(信長の父):信秀の危機を防ぎました。

清洲城を奪うときも「内応」するふりをして清洲城の中に入り込んで乗っ取りして、信長に清洲城を渡しています。結局、自身は信長より譲られた那古屋城で「裏切り」を怖れた信長の策略で亡くなったともいわれています。

松平清康の孫である家康に与えた最高のものは、安城松平4代目当主が安祥城から、宗家たる岡崎松平家の岡崎城を奪って松平宗家7代目になり、三河を統一したことです。結果、今川から独立したときに家康は三河統一の大義名分を得たといえます。そうでなければ、『成り上がりもの』としての三河統一は困難を極めたものと思われます。

信長にも家康にも、『成り上がりもの』のイメージはありません。これは、織田信光・松平清康のおかげといっても良いかもしれません。しかし、領国の統一にはこのイメージが大事ではないかと思います。

2018年5月3日 緒川城 於大公園

2018年5月3日 緒川城址 於大公園

 

知多郡東浦町で於大まつりが毎年4月の第3土曜日が開催されます。本当はその日に知多半島の城址巡りをするつもりで東浦町役場まで来たのですが、残念ながら駐車できずに断念しました。それで、亀崎潮干祭りに行った後の今日(5/3)廻ることにしました。

天下人・家康の生母:於大については。松平氏に離縁された後に再嫁した久松氏の本拠地:知多郡阿久比町と生地で幼少期を過ごした東浦町及び刈谷市の3市町で本家争いがありましたが、東浦町が一歩リードといってもいいかなという状況です。何故なら、総面積12.1ヘクタールに及ぶ東浦町民の憩いの場となっている「於大公園」と多くの人を集める「於大まつり」により人々の印象は、於大の方=東浦町となったような気がします。

家康の生母:於大は家康を生んだ(1543年)後、松平氏から離縁(1544年)されるのですが、それは、松平・今川陣営だった於大の父:忠政が亡くなった後に家督を継いだ異母兄:信元が織田氏に協力(織水同盟)したからです。その後於大は、知多郡坂部(阿古居)城主・久松俊勝に再嫁(1547年)するのですが、その後の話は坂部城址のところでしたいと思います。

やはり、緒川城では於大の異父兄・水野信元について語らなくてはと思います。

信元が悲運の武将だということを知っていましたが、知多半島を統一したことは知りませんでした。於大が三河の旗頭・松平広忠と離縁の原因となる織田信秀の三河侵攻に協力し、自らは知多半島へ侵攻しました。於大を阿久比の久松氏に嫁がせたのも(1547年)その一環です。また、大野・内海を領する佐治氏とも姻戚を結んで、知多半島の覇者となったようです。

水野信元は信長と家康の「清洲同盟(1562年)」を仲介し、家康が苦戦した三河一向一揆(1563年)では家康に援軍を出して助け、信長の上洛(1568年)に従軍。姉川の戦い(1570年)において佐和山城を攻落。三方ヶ原の戦い(1572年)に援軍として参陣。長島一向一揆討伐(1574年)、長篠の戦い(1575年)に参加。当時の石高は24万石と称されています。

しかし、最後は信長の武将・寄り親:佐久間信盛の讒言により武田勝頼の武将の秋元信友との内通の疑いで、信長の命を受けた甥の家康によって岡崎大樹寺で殺害(1576年)されました。3年後におこる家康嫡男・松平信康とその母・築山殿粛清(1579年)につながる事件かもしれません。

佐久間信盛追放後、信長は、信元が冤罪だったとして、家康の下にいた信元の末弟・忠重を呼び寄せて、旧領を与え水野家を再興させました。

家康は水野信元の三男を徳川家家臣土井利昌の養子とし、利昌には実子で長男の元政(甚三郎)がいましたが、それを差し置いて利勝が土井家の家督を継いでいます。徳川秀忠が生まれると(1579年)安藤重信、青山忠成と共に傅役を命じられ、出世を重ね最終的に下総古河16万石に加増移封(1633年)され、武家諸法度の制定、参勤交代制の確立など、江戸幕府初期の幕政確立に貢献しました。3代徳川家光が、酒井忠勝と共に大老に格上げ(1638年)されたことが記録されています。江戸時代に大老になれるのは井伊家・酒井家(雅樂頭流酒井家)・土井家・堀田家の4家とされています。

土井利勝を家康が重用・栄達させたのは、水野信元の実質的な嫡子として信長の命とはいえ、罪無き信元を討った償いの意味もあったかもしれないと思います。

2018年5月3日村木砦

2018年5月3日 村木砦

 

織田信秀と同盟をテコに知多半島を統一した水野信元に対し、駿河・遠江・三河の三国の太守・今川義元の狙いは尾張への浸食・まずは知多半島への侵攻です。

織田信秀の晩年病で伏せて救援できずに安祥城を今川方に奪還されたことにより今川家の三河支配は確実なものとなりました。信秀の死後(1551年)、信長が家督を相続するに当たり織田家は内紛状態になりました。そのような状況の為、織田方であった鳴海城主・山口教継父子が今川方の傘下にはいり(1552年)、その策略により大高城、沓掛城が今川方に奪われ(1553年)、知多半島西側の寺本城の花井氏も今川方に転じました。翌年には重原城も今川方に攻略され、水野信元の刈谷城と異父弟・水野忠分の緒川城ののど元に村木砦を築きました。(1553年)

水野信元は信長に救援要請に対し、信長は、信長公記で有名な那古野城の守りを斎藤道三の援軍に任せ熱田湊から、強風をついて船出し、知多半島に上陸。本陣を村木神社に置き、村木砦を攻撃・戦いに勝利(1554年1月)して今川勢を知多半島から追い払うことに成功します。

その後、信長は尾張統一を進めるとともに今川勢に対しても反転攻勢。笠寺城を奪還し、鳴海城には丹下砦・善照寺砦・中島砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築き圧迫したため、今川義元は自ら大軍を率い尾張を目指して東海道を西進。信長が奇襲により勝利した桶狭間の戦い(1560年)につながります。

村木砦の戦いは、結果的に織田と今川の最終決戦となった桶狭間の戦いの前哨戦の位置づけであったと言えると思います。この戦いで織田方が破れていた場合、多分、水野信元は、信長を見限り今川方に与していたはずです。そうすると、大高城と鳴海城の付城も機能しなくなり、織田方の最前線は愛知郡内での戦いになったことでしょう。

2018年5月3日坂部城址

2018年5月3日 坂部城址

 

 坂部城については、於大の方(おだいのかた)の再嫁した城であり、桶狭間の戦い(1560年)の前哨戦、大高城の兵糧入れを行った(後の徳川家康)松平元康が坂部城の於大の方と対面をしたとの伝説があります。

また、於大の方の夫・久松俊勝は、岡崎城に復帰した松平元康(徳川家康)に従い、永録五年(1562年)に、坂部城を先妻の息・信俊に譲り、於大と家康・信俊の異母弟妹三男五女を伴い岡崎城に移り家康に与して三河統一戦に協力し、三河国宝飯郡西郡の上之郷城を与えられたとあります。

ただ、俊勝にとっては於大の方の実家水野信元が佐久間信盛の讒言により謀殺され、水野一族は所領を没収され離散の浮目に遭ったことに腹を立て隠退してしまったようです。

また、坂部城を譲った庶長子・信俊が石山本願寺攻めに参加。石山本願寺攻めに手こずり苛立った佐久間信盛が信俊に、門徒衆と内通しているとあらぬ疑いをかけたので、自らの潔白を明かすべく無念にも自刃して果て、久松信俊の所領も水野領と同じく佐久間信盛に接収された(1577年)歴史を持ちます。

そんな不運なこともありましたが、於大の方の息子・松平康元、勝俊、定勝の3人は、松平姓を与えられるとともに、家康の異父弟であるという縁からそれぞれに累進し、江戸時代にはいずれの家系も大名に列しました。もっとも嫡統である康元の家系は当初城主であったものの断絶を重ねて旗本に家格を落とし、勝俊の家系は無城大名止まりであったのに対し、末弟・定勝の家系のみ3家が城主大名として幕末まで続きました。

定勝は兄弟中もっとも長命で、小南3,000石を振り出しに遠江掛川藩3万石、伏見城代5万石、伊勢桑名藩11万7,000石と栄進しました。定勝には6人の男子がおり、次男定行は伊予松山藩15万石の祖となり、三男・定綱は、美濃大垣藩6万石から伊勢桑名藩11万石の祖。子孫は一時、越後高田藩・陸奥白河藩に移されたこともありますが、幕末には桑名藩主でした。なお、松平定信は田安徳川家からこの家系に養子に入りました。

四国の松山市へ行くと、久松松平家が長く藩主を務めていたこと、この久松家のルーツは知多郡阿久比町で近所であることを思うと何故かしら自慢気な気持ちになります。

久松松平家は、於大の方の息子・家康の異父弟という家系を生かして、江戸時代を生き抜きました。

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