登城でござる

2019年12月19日 江戸城址

 

江戸城址とは現在の皇 居東御苑です。

 

皇居東御苑は、旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として、宮中行事に支障のない限り公開(無料)しています。但し、今回は平成から令和の代替わりの施設が東御苑内内にあり、制限を受けました。残念ながら天守台にも登れませんでした。

江戸城天守を再建する会の講演会をネットで見ました。木造天守再建は名古屋城で当初は2020年完成。今は2028年10月完成になっていますが、多分名古屋城の木造再建は難しいだろうなと思われます。

江戸城天守の再建を議論は進めて是非とも再建してもらいたいですが、天守が江戸城にあったのは「わずか51年」江戸時代が慶長8(1603)年から慶応3(1867)年まで265年にわたるのに対し、天守が江戸城にそびえていたのは僅か51年であり、江戸の町には天守は似合わないのでは思ってしまいます。

その51年の間に3度も建てられ

ています。最初の天守は家康が建てた慶長度天守:慶長12(1607)年、2度目の天守は2代将軍秀忠が建てた元和度天守:元和9(1623)年頃、3度目の天守は家光が建てた寛永度天守:寛永15(1638)年です。

この天守は明暦の大火:明暦3(1657)年に江戸のまちの大半を焼いた大火災により、江戸城の天守も焼け落ちてしまいましたが、万治元(1658)年に加賀前田家に命じて造られたのが現在、皇居東御苑にある天守台です。でも天守を建てるのは延期になってしましました。

天守は、お城の象徴です。天守が無くてもお城はお城です。元々、お城には柵と土盛りと空堀があり、柵の中に納屋と見張り台があれば立派なお城です。天守にこだわるのは本当の城好きではないかもしれませんが、やはり、江戸城はともかく、名古屋城天守の木造復元して欲しいなぁと思うのは私だけでしょうか?

2019年9月26日 松本城

 

国宝「松本城」には、4~5回来ていると思います。割と愛知県から近いし、見ごたえのあるお城ですから何回か訪れます。前回は小学校からの同級生と2017年10月に来ています。このお城の良さは、程よい大きさかなぁ?

犬山城、姫路城、松本城、彦根城、松江城の5つの国宝天守で姫路城は巨大すぎるし、犬山城は少し物足りない、彦根城はいつ行っても混雑している。松江城は遠いよなぁ。となるとやはり松本城へ行こうですね。

今回は、たまたま泊まり込みでセミナーを松本まで聞きに来て、ずうずうしくセミナー後の懇親会まで参加させていただき、ホテルで朝起きたら松本だ。松本へ来たなら松本城へ行かなければと思いやってきました。昨日遅くまで飲んでいたので体調は最悪でした。

 

とはいえ、松本城といえば、初代藩主が石川数正です。石川数正は注目すべき戦国武将ですが、あまりかかわったお城が少ないようですので。松本城で取り上げます。

 

松本藩の藩祖は、徳川家康に仕えた「三河の旗頭」の一人・石川数正である。数正は家康が今川義元の人質だった頃から仕えていた最古参の家臣で、永禄5年(1562年)の織田信長と家康との同盟締結に大きな功を挙げた人物である。しかし小牧・長久手の戦い後の天正13年(1585年)11月13日、数正は突如として家康の下から出奔し、当時家康の宿敵であった羽柴秀吉のもとへ降った。この出奔には諸説あり、未だに定説はない。

 

その定説について私なりの推理です。家康と数正は信頼しあっていたと思います。数正は、秀吉との交渉役として秀吉に頻繁に合っていましたので、秀吉からヘッドハンティングの誘いを受けます。その際、家康と相談したと思います。

家康は家臣団の主流から外れた数正を秀吉側へスパイとして送り込んだものと推測します。その結果、天正14年(1586年)に、秀吉は自分の妹の「旭姫(朝日姫)」を、家康の妻として嫁がせています。それでも上洛しない家康を母のなかを人質として岡崎城に送ったため、家康は上洛して臣従したと推測します。

家康は数正からの情報を元に自分を秀吉に相当高く売り込んだものと推測します。そう考えたほうが世の中、面白いですから。

2019年8月11日 上山城(かみのやまじょう)

 

かつて「羽州の名城」と称えられた上山城。幕命により取り壊されてから290年ぶりに郷土資料館としてよみがえりました。
天守閣からは、蔵王連峰や温泉街の風情を残す市街地の家並みを楽しむことができます。

上山城郷土史料館の案内文です。

 

戦国期は、伊達氏と最上氏との係争の地。

江戸時代になると上山藩が出来て、江戸初期に最上氏が改易された後は、没落した諸大名が3万石から4万石で入部し、城主を務める氏族がめまぐるしく変わるが、上山藩自体は幕末まで存続した。本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠が取り巻いていた。藤井氏時代には天守はなく、二の丸に居館が設けられていた。

金森家が転封された際に一度破却されたが、破却前は本丸に三重の天守や各所に櫓門がある近世城郭であり、月岡・天神森にそびえるその壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れ渡っていた。藤井松平家が封じられた際に上山城は再興されたが、二の丸に居館を設けた程度の城構えであり明治を迎えた。

城跡は月岡公園および月岡神社境内となり、1957年(昭和32年)4月20に市の史跡に指定された。また、1982年に二の丸跡に3層の模擬天守が建立された。模擬天守の内部は、郷土歴史資料館として利用されており、季節によって、雛人形展や鎧などの収蔵品展、刀剣展といった催しが行われている。

再建当時、実際には天守の無かった城を天守付きで再現することについて多くの論議を呼んだ。 (ウィキペディア上山城より引用)

上山城は、模擬天守です。1982年造られた 望楼型3層5階、鉄筋コンクリート造模擬。江戸時代の資料があるようです。(出羽国之内上山絵図 – 正保元年(1644年)に幕府提出の「正保城絵図」。複写が資料館にて不定期展示。)

出羽国之内上山絵図 – 「正保城絵図」には、天守がありません。歴史的に無かった天守を造ったのですね。お城好きにとっては残念ですが、致し方ありません。

建物というのはそこに建っていると存在感があるのですが、撤去してしまうと、あれあそこにどんな建物があったかなぁ?と思い出せなくなるものです。天守は無かったですが、上山城の場合、お城はここにちゃんとありましたので、その記念として天守型の郷土史料館を造ったということで納得しましょう。どうか、お城好きのみなさんも、模擬天守には暖かい目で見ることにしましょう。

2019年8月11日山形城址

山形城と云えば、最上義光でしょう。大河ドラマ「独眼竜政宗」で原田芳雄さん演ずる最上義光は強烈でした。かなりの悪役でしたが、ゾクゾクするほど残虐で、カッコイイヒール役、卑劣で凶悪な武将として、妹の子の伊達政宗をとにかく貶める役柄は強烈でした。

もうひとつ戦国武将「最上義光」の有名なエピソードは、秀吉が天下統一を果たした後です。秀吉の跡取りであった秀次が、東国一の美少女と名高かった義光の次女の駒姫を側室に出すように義光に迫り、義光は断ったものの度重なる要求に折れ、15歳になったら娘を山形から京へ嫁がせると約束。

文禄4年(1595年)、駒姫は京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、7月15日、秀次は豊臣秀吉の命により高野山で切腹させられ、そして駒姫も8月2日に他の秀次の側室達と共に、三条河原に引き立てられ11番目に処刑された。まだ実質的な側室になる前だったと言われています。

慶長5年(1600年)9月。西の関ケ原と言われた「慶長出羽合戦」の後、庄内地方を手に入れた義光は出羽山形藩57万石の大藩となりました。

家康の時代になり、家督は嫡男・義康では無く家康に近侍させていた次男・家親が継ぐことになります。嫡男・義康の廃嫡は家康の意向を受け手と言われています。義光の死後、後を継いだ家親は元和3年(1617年)に急死した。家親の子・義俊(義光の孫)が後を継いだが、後継者をめぐって内紛が発生し幕府の仲介でも解決しなかったため、家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の元和8年(1622年)に改易されてしまいました。

最上義光は、戦国武将としては成功者でしょう。しかし子孫は大名として生き残ることができませんでした。山形藩は最上家が改易になった後、徳川家譜代の鳥居家や保科家の時代には、東北地方の徳川藩屏として君臨し、この時期の所領は20万石前後の中藩になりましたが、保科家が会津に移封されると山形藩は幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が12家にわたって頻繁に入れ替わった。しかもこの時期の所領は6万石、多くても10万石程度の小藩となり、藩主も譜代大名のため在国より江戸滞在が長期化し、所領も関東に飛び地が存在していたことから藩政は不安定だったようです。

残念ながら、江戸時代の出羽山形城は幕閣の左遷地だったようです。

また、現地には「さがしています!本丸御殿や一文字櫓の写真や白の古絵図の資料を探しています。お心当たりの方は、ご連絡ください」の看板があります。山形城には元々天守閣は存在せず、本丸内に御殿がありましたが、間取り図は存在するものの建物の形を確認できる立面図等が見つかっていない為、本丸御殿御殿を復元できないということで、本丸御殿の絵図等を探していました。

2019年4月8日苗木城

この日は風が非常に強い日で、月曜日でしたので私達しか人影はなく、苗木城へいくのは、風で飛ばされそうで怖かったことを思いだします。

 

写真を見ていただければわかると思いますが、岩

場の山の上の天空の山城です。とてもインスタ映えするので、もっとアピールして史料館或いは苗木桜公園に道の駅を併設されると良い観光スポットなると思いました。

歴史的には、東濃に起こった遠山氏は、一時「遠山七家」が諸城に

拠って東濃地方に威を張りました。しかし江戸時代、諸候として苗木遠山氏と旗本の明知遠山氏の二家のみしか存続しませんでした。テレビや映画でおなじみの「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元は、明知遠山氏の末にあたります。

知行500石の明智遠山氏の分家の6代目の「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元と、1万石の苗木藩の遠山家とどちらが良いか?

石高だけを見ると「苗木遠山氏」ですが、内情はさにあらず、1万石の大名は大変だったようです。藩政においては幕府の相次ぐ手伝い普請や軍役などにより財政窮乏が早くから始まり、このため新田開発を行なって4286石の新田を開発しましたが、第5代藩主・遠山友由の大坂加番による出費などもあって財政の改善には至らなかった。歴代藩主は藩政維持のため、厳しい倹約令を出し、天保年間には給米全額の借り上げを行なうなどしました。

最後の藩主・遠山友禄は文久元年(1861年)に若年寄となり、さらに大坂警備も任されましたが、そのため出費がさらに重なって財政は火の車となり、友禄は五種類の藩札発行による改革を図りました。しかし、元治元年(1865年)に2度目の若年寄就任、慶応元年(1865年)に第2次長州征伐にも参

加したことによる軍費から、遂に財政は破綻しました。明治維新後、14万両あった藩の借金苗木城破却に伴う建材や武具などの売却、藩士全員

を強制的に帰農、家禄を返還させ、帰農法に基づいて政府から支給される扶持米を3年間返上させること、藩知事遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、明治4年(1871年)には5万2600両までに縮小しました。

(結局、最後はどうしたんだろう?最後の藩主:遠山友禄は子爵になっていますが、絶対に借金を返してないと思います)

 

等々、ウィキペディアの文章を読むと、1万石の大名なんてイヤダ!

「遠山の金さん」が良いと思うのは私だけでしょうか?

2019年4月8日 岩村城址

岩村城と言えば、悲劇のおんな城主:おつやの方ですね。

尾張国の武将・織田信定の娘として誕生。信定は信長の祖父です。といことは、おつやの方は信長にとっては叔母に当たります。東美濃遠山氏の地頭・遠山景任に嫁ぎました。遠山氏は鎌倉時代から東美濃一帯を勢力下においており、戦国期、おつやの方の夫:遠山景任は、信玄の勢力下で、美濃の斎藤家に対する為、信長と信玄の間をうまく取り持っていたものと思われます。

元亀3年(1572年)8月14日、夫・景任が、後継ぎが無いまま病死したため、甥にあたる信長から五男の御坊丸(後の織田勝長)が養嗣子として岩村城に送り込まれました。ただし、御坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が当主の座を引き継ぎ岩村城の女城主となりました。

岩村遠山氏と苗木遠山氏は、天文23年(1554年)から信玄の勢力下だったようです。弘治2年(1557年)7月13日、父の景前が亡くなり、嫡男であった景任があとを継ぎましたが、まだ若かったことから遠山七頭の中に従わぬものがあって後継者争いが起こりました。これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た景任が当主となることができたという経緯があります。

以後、東美濃においては遠山宗家と信玄との主従関係に基づく武田支配が成立し、遠山氏は武田方に人質を出していました。他方で同年、斎藤義龍が道三を長良川の戦いで破って美濃を手中に入れると、遠山氏の中では明知遠山氏の友行の明智城攻めに加わるなど、一時的に斎藤氏にも与しました。また従来の織田氏との関係も維持されており、これが台頭して濃尾に勢力を伸ばすとむしろ接近しました。時期は不明ながら、景任が織田信長の叔母のおつやの方(織田信定の娘)を娶って縁戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属するという関係を築いていきました。特に永禄年間になると、遠山氏は武田氏と織田氏に両属して、その外交関係(甲尾同盟)を仲介する存在でした。

永禄8年(1565年)に武田軍が金山城の森可成と米田城の肥田玄蕃允を攻撃した後、信長が景任の弟を遠山直兼の娘を養女として信玄の庶子武田勝頼の室とする縁組をまとめたのも、遠山氏を介した織田氏武田氏両家の連携の一環でした。

元亀元年、秋山虎繁は三河の徳川氏を攻撃する途中で遠山領へ侵入したことで上村合戦が勃発し遠山各氏に大打撃を与え、景任の後継争いの際にも秋山が武田軍を率いて遠山の国衆と協議したと考えられています。

元亀3年(1572年)8月14日、夫:遠山景任が病死して岩村遠山氏の血統が断絶したのを機会に信長は東美濃の支配権を奪う好機として、岐阜城留守居の川尻秀隆や織田信広を岩村城に派遣して占領すると、自らの子(御坊丸のちの織田勝長)を亡くなった遠山景任の養嗣子として継がせ、おつやの方を後見人としました。元亀3年(1572年)10月、東美濃の支配権が信長に奪われたことに対して、駿河国に侵攻していた信玄は、伊那郡代秋山晴近と依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の奪還を命じました。岩村城は武田勢に包囲され、城主となっていた信長の叔母のおつやの方は秋山と婚姻(元亀4年(1573年)2月下旬)するという条件で降伏し開城しました。岩村城内に居た者は以後武田氏に仕えることになりました。秋山は御坊丸を人質として甲斐に送り、岩村遠山氏は完全に消滅しました。

これって、おつやの方のせいかな?おつやの方は秋山虎繁との婚姻により、御坊丸と城兵を守ったと言えます。後に御坊丸は信長に返還されています。

武田勢に岩村城を包囲されたときに援軍を出せなかった信長のせいではないかと思います。信長には援軍を出すに出せない状況にあったようですが・・・。

信長の当時の状況は、元亀2年(1571年)は、朝倉義景が三好三人衆、浅井長政、本願寺・顕如とともに信長包囲網を形成し信長に対し抵抗を続けた時期です。勅命講和により一旦は和睦するものの、元亀3年(1572年)、義景は浅井氏、顕如に加え、甲斐守護の武田信玄も仲間に引きずり込み再び信長包囲網を形成しました。信長は西方の本願寺と三好三人衆、東方の朝倉・浅井連合軍に挟撃され、同盟者の家康も元亀3年(1572年)12月21日遠江・三方ヶ原で信玄に大敗するなどし、窮地に立たされていました。しかし12月になって義景が越前に帰国したため、信長はひとまず危機を脱しました。そして信玄の死(元亀4年(1573年)4月)により窮地を脱することができました。

織田軍は天正3年(1575年)5月21日長篠の戦で武田勝頼軍を破ると、織田信忠らが岩村城を包囲。勝頼は岩村城を救援するべく出陣しましたが、到着するより前の11月21日、岩村城は落城した(天正3年(1575年)の岩村城の戦い)。信長は虎繁らを赦免すると見せかけ、礼に来たところを捕らえ、長良川近くで磔刑にしました。その理由は、長篠城の奥平信昌が徳川家康に寝返った際、武田勝頼が奥平の妻を磔にしたので、その報復だということでした(『甲陽軍』)。おつやの方もまた信長に捕らえられて逆さ磔で処刑されました。あるいは信長が裏切られた鬱憤を晴らすために自ら斬ったともいわれています。

2019年4月8日   美濃金山城

美濃金山城に来ると、蘭丸ふる里の森の看板が迎えてくれます。蘭丸とは、本能寺の変で信長と一緒に亡くなった森蘭丸のことです。蘭丸は幼名で森成利というのが成人後の名のようですが、森成利と言っても誰もわかりません。やはり蘭丸で本能寺の変で坊丸と力丸と共に討ち死にしたことで世に知られています。

森蘭丸は、本能寺の変のときは、この美濃金山城の城主だったようです。森可成の次男:森長可が武田家滅亡後に海津城に入ったため、その後釜として城主になったようですが、信長の側近として働いていたため、美濃金山城の統治は家老任せだったようです。

それでも、美濃金山城は蘭丸ふる里のお城です。一番有名な人の名前を冠した方が観光的には良いですから、蘭丸は有名ですが、今日は、現地の看板の美濃金山城-興亡の歴史にあるように、蘭丸の父=6兄弟の父:森可成を取り上げたいと思います。

森可成は大永3(1523)年から元亀元(1570)年まで活躍した武将ですから、信長がまだ尾張の統一もままならない時からの家臣です。

美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の天文23年(1554年)には尾張国で織田信長に仕えました。このパターン誰かに似ていませんか?大河ドラマの「麒麟が来る」の明智光秀は、斎藤道三に仕え、道山が息子の義龍に討ち滅ぼした後に、越前に逃亡し、朝倉家に仕えています。

可成は、信長の家督相続と尾張国統一に尽力し、弘治元年(1555年)の信長による清洲城攻めでは織田信友(広信)を討つ功績を挙げ、 弘治2年(1556年)9月には信長とその弟・織田信行の家督争いである稲生の戦いにも参陣し信長軍の勝利に大いに貢献しました。永禄3年(1560年)の今川義元との桶狭間の戦いなどにも参陣しました。いわゆる苦しい時代からの部下です。

美濃攻略においても武功をあげ、斎藤勢のみならず、信濃から東美濃に侵攻してきた武田勢とも戦いました。永禄8年(1565年)には美濃金山城を与えられ、信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め(勝竜寺城の戦いなど)、上洛後には近江宇佐山城を与えられた。元亀元年(1570年)に6月に起こった姉川の戦いにも参戦しました。6兄弟は美濃金山城で生まれているので、妻のえい(妙向尼、林通安の娘)は金山城にいたのでしょう。

元亀元年(1570年)9月、宇佐山城に在った可成は浅井長政・朝倉義景の連合軍出撃の知らせを受けて進軍を妨害する為に宇佐山城より出撃して坂本に陣取り街道を封鎖。9月16日に緒戦においては連合軍3万を1千の軍勢で撃退。しかし石山本願寺法主・顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻で先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せるが、浅井対馬、玄蕃の2千に側面から攻撃を仕掛けられ、さらに朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったため信長の弟・織田信治、近江の国人・青地茂綱と共に討死しました(宇佐山城の戦い)。

信長にとって、森可成はかけがえのない武将だったと思います。森家の家督を継いだ次男の長可は、自分の後継者の信忠につけ、信濃計略に当たらせますし、更に、三男:蘭丸、四男:坊丸、五男:力丸は小姓として側に置いています。

森長可のその後も面白いので別記します。

2019年4月8日美濃金山城その後

2019年3月30日 津偕楽園

 

  津偕楽園は、昔は「御山荘」(ごさんそう)、または「御山荘山」といい、津藩第11代藩主藤堂高猷公(とうどうたかゆきこう)が 安政年間(1854~60)に別荘を設けたのが始まり。偕楽園の名は高猷公の俳号から だそうです。

  津藩は、伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩です。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもあり、藩庁は安濃津城(津城)。石高は伊勢・伊賀2国を合わせた22万石(大坂の陣後、32万3000石に加増で大和国などにも飛び地領が存在)。

 県庁所在地は、江戸時代の藩庁が置かれた地が多いようです。そこには大名の城があり、邸宅があり、また、この津偕楽園のような別荘も設けられました。

 人の集まる所は、富が集まるところと富を拠出するところの2つの地域があります。富を拠出する地域をたくさんあれば、富が集まる地域は豊かになり、豊かになればこその城であり、藩主の御殿であり、別荘ができます。そういった点で、伊勢の国、安濃津は豊かな所だったのでしょう。

 そして、その富の集積する豊かな地が、県庁になり、津偕楽園のような庭園を現在まで維持することができたということでしょう。昔からの藩庁が県庁になった所は津偕楽園のような庭園を維持できた都市は多いです。

これは不届きな考え方かもしれませんが、今度生まれ変わるなら、どこかの県庁所在地の都市にうまれたいなぁ。

2019年3月30日津城跡

  伊勢国の津は、安濃津(あのつ)と呼ばれた平安時代から伊勢国の中心地であり、津城は戦国時代初期から様々な歴史があることはこの場では無視して、江戸時代:慶長13(1608)年に伊予宇和島から移封になった藤堂高虎の話を述べたいと思います。

 主を7回も変えた猛将とも云われます。近江国出身ですから、まずは浅井長政に足軽として仕え、元亀元(1570)年の姉川の戦いに14歳で参戦して首級を取る武功を挙げ、天正元(1573)年に小谷城の戦いで浅井氏が滅びると、浅井氏の旧臣:阿閉貞征、次いで同じく磯野員昌の家臣として仕えた。やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きしなかった。その後、流浪生活の後、天正4(1576)年21歳の時に羽柴秀吉の弟:秀長に300石で仕えました。後の天下人秀吉の弟:秀長に仕えたことが単なる長躯の猪武者から高虎を築城の名人と呼ばれるほどの武将に育てたものと思われます。天正19(1591)年35歳の時、秀長死去時には2万石の大名に出世していました。その後、秀長の甥:養子の豊臣秀保に仕え、文禄4(1595)年秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が生駒親正に説得させて召還したため還俗し、5万石加増され伊予国板島(現宇和島)7万石の大名になりました。

慶長の役 慶長3(1598)年には、水軍を率いて参加し、朝鮮水軍の武将:元均率いる水軍を壊滅し、南原城の戦いと明梁海戦にも参加し、帰国後に大洲城1万石を加増され豊臣政権では最終八万石になりました。

 ⑧最終的に徳川家の大名となり、主君を七回変えた武士とされ、ある意味蔑みに言われることもあるようですが、徳川家康との相性は抜群だったのでしょう。

 慶長3(1598)年8月秀吉が死去すると、豊臣家臣団は武断派と文治派に分裂、高虎は武断派というより、徳川家康派に与します。会津征伐に従軍し、その後岐阜城を攻略、9月15日の関ケ原の戦いでは大谷吉継隊と戦い、更に脇坂安治、小川祐忠、朽木元網、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行い、東軍の勝利に貢献しました。

戦後、これらの軍功により宇和島城8万石安堵の他に新たに今治城12万石を加増され20万石の大名になりました。江戸時代になると、江戸城改築に功を挙げ、慶長13   (1608)年に伊勢安濃郡と一志郡内10万石及び伊賀国内10万石と四国今治城周辺の越智郡2万石を飛地として22万石に加増移封され、津藩初代藩主となりました。よほど、家康と相性が良かったのでしょう。徳川家の外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用されました。

慶長19(1614)年大阪冬の陣、慶長20(1615)年大坂夏の陣に徳川方として参戦、長曾我部盛親軍と八尾の戦いで対峙、激戦となり600人余りの死者を出しています。戦後、その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石加増され、27万石になっています。家康死去の後、元和3(1617)年、新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され、弟正高が下総国で拝領していた3000石を津藩領に編入し、石高 計32万3000石の大大名となりました。田丸5万石は元和5(1619)年に和歌山城に徳川頼宜が移封されると紀州藩領となり、藤堂家には替地として大和国と山城国に5万石が与えられました。

人にはその人なりの歴史があります。今は便利な時代です。藤堂高虎を知りたければ、「ウィキペディア」で調べることができます。その人なりを思うとき、どういう人生を送ってきたかを長々と綴らないと中々表現することができません。

よく、戦国時代は下克上で貧農出身者も戦で手柄さえ立てれば一国一城の主になれると言われます。多くの民はそれを信じて一国一城の主を夢見たかもしれません。しかし、それを実現したのは太閤秀吉を初め僅かな人しかいません。その僅かな人として夢を体現したのが藤堂高虎でしょう。「身長は6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている。」14歳から60年間戦って、得たものが32万3000石です。割に合うかどうかより、それしか生きられなかったのでしょう。

さて、藤堂高虎はNHK大河ドラマの主役が張れるでしょうか?

結構、面白い物語になると思うのですが、信長を初め、秀吉、家康、光秀、浅井長政、織田信澄、豊臣秀長、丹羽長秀、三男:藤堂高吉等々、戦国の殆どの有名人を登場させることができます。戦いについては、姉川の戦いから秀吉の天下人に駆け上がる戦い、朝鮮の役、関ケ原から大坂夏の陣まで、日本の戦国期の戦いを全てに関りがあるので戦闘シーンも豊富です。

良いと思うのですが、

ただ、やはり地味と言えば地味で、華が無いと言われれば華が無いので大河ドラマはちょっと無理か!

2019年3月30日神戸城跡

2019年3月30日 神戸城跡

 

 伊勢神戸城で一番に思い出すのは、織田信長の三男・神戸信孝です。伊勢(三重県)の人には失礼な話かもしれません。何故、伊勢を代表する戦国の城で信長の三男が出てくるのか?神戸氏の神戸具盛とか他にいるだろうという意見はごもっともですが、あまりいい逸話が無いようですので、信長の息子のお話をします。

信長が、伊勢を攻めたとき神戸氏には三男信孝を。その後、名門:北畠氏には次男信勝を養子に出して和議を結び実質的には御家を乗っ取り、伊勢を平定しました。

伊勢攻略以前の信長の尾張統一戦は父:信秀の死去の天文21(1552)年3月から、永禄元(1558)年までです。永禄2(1559)年2月には、上洛して室町幕府13代将軍:足利義輝に謁見し、尾張統一を報告しています。次の年、永禄3(1560)年には桶狭間の戦いで敵将今川義元を討ち取り、撃退しました。

美濃平定戦が本格化するのは、永禄4(1561)年、斎藤義龍が急死し斉藤龍興に代替わりしてからです。永禄10(1567)年に美濃斎藤龍興を伊勢国長嶋に敗走させ、美濃平定を終え、いよいよ上洛戦の始まりです。

永禄11(1568)年7月に足利義昭を岐阜城下に迎え、9月には上洛戦が始まります。10月には上洛を成し遂げ、足利義昭を第15代将軍にしました。

信長は、美濃平定と上洛戦の間の永禄10年(1567)年に、滝川一益を先方に伊勢国北部攻略を始めましたが、一度は神戸具盛に防がれ、撤退しています。

永禄11(1568)年2月、二度目の伊勢攻略の際に、信長は神戸城主:神戸具盛を懐柔するために三男の信孝を養嗣子としました。この時、永禄元(1558)年4月生まれの信孝は満10歳に満たない年齢でした。信長の本来の目標の天下布武の脇道である伊勢攻略を素早く進めるために、弟の信包を長野氏の養嗣子とし、永禄12(1569)年10月次男信雄を南伊勢の北畠家の養嗣子にして伊勢を平定しました。

何故、神戸信孝に注目するのか?本能寺の変は、天正10(1582)年6月2日に起きました。信孝が24歳の時です。若いと言われればそれまでですが、信秀が死に、信長が家督を継いだのは18歳。村木砦の戦いで今川軍を撃退したのは21歳の時です。22歳で清洲城を攻略して尾張西半分を版図にしています。 

何が云いたいかというと、あの本能寺の変の時以後に、後の天下人の秀吉に勝てる可能性があったのは24歳の信孝だけだったのです。

天正10(1582)年6月2日は、信孝が四国方面軍総大将として堺から四国へ出陣予定といわれています。

和田裕弘著「織田信長の家臣団-派閥と人間関係」によると、信長は晩年、自らは戦場に出ず七つの方面軍組織を確立しました。その方面軍とは、

第一軍 織田信忠軍 信長長男・後継者・東国管轄 本能寺の変で死去享年26歳

第二軍 神戸信孝軍 信長三男・四国方面軍総大将 本能寺の変時24歳 変から1年後尾張国野間にて天正11(1583)年5月自害享年25歳。

第三軍 柴田勝家軍 織田家宿老 北陸方面軍総大将 本能寺の変時60歳? 天正11(1583)年3月秀吉との決戦:賤ケ岳の戦いに敗れ、4月北ノ庄城にて自害。

第四軍 佐久間信盛軍 織田家宿老 本願寺攻め総司令官 天正8(1580)年 本願寺を屈服させた後、信長より譴責状を突き付けられ高野山に追放される。その後、高野山からの退去を命じられのち天正10(1582)年1月死去。この情け容赦のない処分が光秀謀反の遠因とも云われています。

第五軍 羽柴秀吉軍 中国方面軍総大将 卑賎の身から立身出世し位人臣を極めました。本能寺の変時45歳。中国大返し・山崎の戦いにより光秀を討伐。その後、天下人になり、慶長3(1598)年8月死没享年61歳。

第六軍 滝川一益軍 関東方面軍総司令官 近江国甲賀出身信長に仕える前の半生は不明。本能寺の変時57歳。上野国厩橋にあり、信長の死に乗じ、小田原城の北条軍の侵攻を受け、神流川の戦いにて初戦は勝利したが、翌日破れ、伊勢に敗走。その後、柴田勝家に与し秀吉と戦うが降伏。天正14(1586)年9月死去。享年62歳。

第七軍 明智光秀軍 近畿方面総司令官 信長中途採用組出世頭。佐久間信盛軍が解体された後、与力を与えられ近畿方面軍総司令官となる。本能寺の変11日後、天正11(1582)年6月13日山崎の戦いに破れ、落ち武者狩り負傷したため自害。

この七つの軍団、佐久間信盛は本能寺の変の時にはすでに追放、死去しているので、六つの軍団のうち、信長を討てる軍団は明智光秀軍だけ、その光秀を討てる軍団は秀吉軍と信孝軍のふたつだけでした。

 

その信孝が四国へ渡海するその日に本能寺の変が勃発し、信孝が四国攻めのために徴集した軍勢、約1万5千人が四散してしまいました。所詮寄せ集めの軍勢であり、変の情勢がもたらせると兵の大半が逃げ散ってしまい、信孝は単独で光秀と対抗できない為、四国攻めの副官だった丹羽長秀と相談し、光秀の女婿で謀反への関与が疑われていた大阪本願寺留守居の津田信済を血祭りにあげて光秀への見せしめとしました。これを見て河内の諸将は信孝を主君と認め、麾下に属しました。

信孝らは、毛利と和睦して東上してきた秀吉軍と合流し、信孝が総大将となって光秀を山崎戦いで打ち破り、父信長の複仇戦で総大将となったことから、この時点では信孝が後継者と目されました。

誤算は天正10(1582)年6月27日の「清洲会議」です。次男信雄と家督争いをしたことで織田家家督に就くことができず、美濃一国と南近江を得ただけで、家督は信長直孫の三法師でしたが、後見役は信孝になり、周囲は信孝を後継者と見ていました。

ここから、織田家簒奪に動く秀吉が、信孝新領地の美濃や南近江の諸将を調略され、烏帽子親の柴田勝家と結んで対抗したが、天正10(1582)年12月、積雪で動けない時期に、岐阜城を攻囲され、美濃国内の諸将も秀吉に寝返り、三法師、母親、娘を人質にして和議を結びました。

翌年、勝家の北近江への進軍に合わせて再び立ち上がりましたが、人質は秀吉により磔にされ、勝家が賤ケ岳で敗れ、北庄城で自害した後は、次男信雄に抵抗らしい抵抗をせずに再度降伏し、尾張国野間に送られ自害しました。

若い信孝に、軍師として助けられる人がいれば、信孝は信長の家督を受け継ぐことができたかもしれません。しかし、四国方面軍の副官:丹羽長秀も「清須会議」では秀吉側についてしまいました。このとき、長秀が勝家と共に、信孝を押していたらと思いますが、そうはなりませんでした。それが信孝の器量だったかもしれません。

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