登城でござる

2019年3月30日 桑名城跡

 

皆さん知っていましたか?桑名城址にあの本多平八郎忠勝像があったことを、やはり来てみなければわかりません。是非とも現地に行きましょう。登城しましょう。

NHK大河ドラマで、藤岡弘演じる本多平八郎は好演でした。役柄は真田信繁(幸村)の兄:真田信之の妻:稲(吉田羊)の父として出ていました。そのイメージは良かったのですが、一般的なイメージは、徳川四天王・徳川三傑としての本多平八郎忠勝です。

ウィキペディアの力を借りて書き進みますが、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭と本多平八」と歌われる武功を残しました。本多忠勝(1548年-1610年)・榊原康政(1548年-1606年)井伊直正(1561年-1602年)を徳川三傑と呼びますが、これに酒井忠次(1527年-1598年)を加えて徳川四天王になるのですが、誰が譜代筆頭かというと本多忠勝だと私は思います。四天王のうち、やはり酒井忠次は三傑に比べて一時代前のひと、忠勝、康政と二十歳以上違いますし、直正とは34歳ですから、親子ほど年が離れていますので活躍した時代が違います。

忠勝と康政は同い年と言われていますが、中々、微妙なのが13歳違いの直正との関係でしょう。

遠江・三河時代、元亀3年(1572年)の二俣城の戦いから天正8年(1580年)の高天神城奪還戦までの武田氏との攻防戦においては抜群の働きをしました。

また、秀吉と戦った天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いの武勇は秀吉からも東国一の勇士と賞讃されました。

しかし、天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜に榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直正の12万石)を与えられました。

ということは、豊臣氏の傘下にはいった天正14年(1586年)から、天正18年(1590年)の間に、家康の家臣の序列が変わったのかもしれませんが、私なりに考えるに、平八郎は目立つことが嫌いというか、三河武士の中で実績も実力もピカ1なのに、家臣団ナンバー1の禄高になることを嫌ったのではと考えます。子孫の為に、禄高ナンバーワンになることが、本当に良いことかどうかを考えてまあ10万石くらいの大名がふさわしいと考えたのでしょう。井伊は譜代とはいえ後から家康の配下に入ったから三河武士団に気を使わなくても良かったと思います。

 

よくドラマに出てくる平八郎は、豪傑だったり、単なる戦上手だったり、家康の信頼の厚い部下として描かれたりと一定しませんが、きっと「一緒に仕事して頼もしい奴」だと思いますので、いつの日か大河の主役なれるといいなぁと思います。

ひさしぶりの「登城でござる」への投稿です。

毎月、お城見学に行きたいと思っていますが、なかなか腰が上がりません。

しかし、まだ未投稿のお城が10個あります。追々、文章をまとめて投稿したいと思います。

2019年2月24日 大和郡山城址

 

 奈良の國の戦国期の有名な城址は多くありません。日本100名城に選ばれたのが高取城ひとつで、続日本100名城に選ばれたのが大和郡山城と宇陀松山城のふたつだけです。

ちなみに世界遺産とされているものは、1993年12月登録の「法隆寺地域の仏教建造物」として①法隆寺②法起寺。1998年12月登録の「古都奈良の文化財」として③東大寺④春日大社⑤興福寺⑥元興寺⑦薬師寺、春日山原始林、平城宮跡。2004年7月登録の「紀伊山地の霊場と参詣道」〈霊場「吉野・大峯」〉吉野山⑧吉野水分神社⑨金峯山寺➉吉水神社⑪大峯山寺〈「参詣道」〉大峯奥駈道(⑫玉置神社含む)、熊野参詣道小辺路と神社仏閣が12もあります。

 奈良の國の100名城、続100名城に選ばれた他の二つの城はまだ訪れたことがありませんので良く知りませんが、大和郡山城は戦国時代の物語にはよく出てきます。洞ヶ峠の筒井順慶も有名ですが、大和郡山城といえば、大和大納言・豊臣秀長です。秀長は天下人:秀吉の異父弟。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍し、天下統一に貢献しました。

 堺屋太一氏の小説で紹介されるまでは、あまり世間には知られていませんでした。太閤秀吉という人物があまりにも巨大でその陰に隠れていたと言えるでしょうが、秀吉が黒田官兵衛に話した言葉に「官兵衛を弟:秀長と同じように思っている。」と言われて、官兵衛は感激して秀吉に忠誠を誓ったという逸話があります。官兵衛もたいしたものですが、そういう風に言われて官兵衛が感激する秀長も、秀吉が頼りにする素晴らしい人間だったと思える逸話です。このお話には更に戦国の最強軍師:竹中半兵衛が登場し、自分の後継者たる黒田官兵衛に忠告したそうですが、兄弟の情は他人とは違うのだから、あまり秀吉の弟と同じように思っていると言われても真に受けないようにした方が良いとの忠告を受けたそうです。でも官兵衛はわざと感激したのかもしれません。まあ、それだけ秀長が素晴らしかったと解釈したいと思います。

 大和郡山城は、秀長の時代、大和・紀伊・和泉100万石の中心地です。秀長のもう少し長生きしたら、もっと発展したでしょう。ちょうど名古屋・和歌山・水戸のように・。しかし、秀長には子供がいませんでした。豊臣政権は、秀長が家康より長生きだったら、続いたかもしれません。また、唐入りもなかったかも・・・。歴史のIFは禁物です。

 それより、稀代の天才:秀吉のおかげで、ひょうとしたら尾張中村の百姓で一生を終えたかもしれない秀長が大和郡山城主として100万石の太守になったことを評価すべきかもしれません。

ということで、あまりWikipediaに頼らずに書いてみました。

今までの文章に参照:Wikipediaと書くべきだったと思っています。これからはそうしますのでよろしくお願いします。

 

2019年1月14日 高槻城址

 

 戦国時代、最もかっこよく生き残った武将:高山右近と勝手に決めつけていますが、それを本人に聞いてみれば、人生はそんな尺度で決めつけるものではないと言われそうな気がします。

 高山右近は、「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」と、高槻の街を上げて宣伝し、良いイメージしかありませんが、高槻城主になった経緯は壮烈なものだったようです。

元々、高槻城は足利義昭の直臣:和田惟政が摂津三守護の一人として支配しており、高山父子は和田惟政に仕えていましたが、元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとっています。村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼしました。こうして摂津国は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となりました。

高槻城は、惟政の死後、子の惟長が城主となり、叔父の和田惟増が補佐をしていましたが、何を思ったのか、この叔父を殺害してしまいました。これにより高山家が主だった相談役となりましたが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言しました。高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いたので、高山友照はこの事を村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えました。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出し、高山父子は呼び出しが罠だと聞かされていたので、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになりました。夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗になったが、右近は火が消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせました。騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまいました。およそ助かりそうにない傷でしたが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになったようです。

高山右近の若かれし頃にこうゆう歴史があったことを初めて知りました。その後、高山父子は荒木村重の支配下に入り、信長から村重の与力として認められ晴れて高槻城主になることができました。父の友照は50歳を過ぎると高槻城主を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践し、教会建築や不況に熱心だったために領内の神社仏閣を破壊し、神官僧侶を迫害したようです。

そして、天正6年(1578年)10月末、荒木村重の反乱「有岡城の戦い」を向かえます。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしましたが失敗しました。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガティノ神父に助言を求めたところ、神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ。」と助言しました。

高槻城は要衝の地であったため、信長は右近を味方につけるべく機内の宣教師達を説得に向かわせました。右近は織田方につく意思はあったものの、村重の下にある人質達の処刑を恐れ、判断し兼ねていました。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つとなっていました。懊悩した右近は、信長に領地を返上することにより、織田との戦を回避し、尚且つ村重に対しての出兵も回避し人質処刑の口実も与えないという打開策に思い至ります。右近は紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました。村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしませんでしたが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返った)。この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、摂津国芥川郡を与えられ2万石から4万石に加増されました。

このような右近の行動とその結果が、戦国時代、最もかっこよく生き残った武将と言われるゆえんですが、本人の苦悩はこんな軽い言葉で言い表せることではなかったと思います。村重と信長、父:友照とオルガティノ神父、人質に差し出した妹や息子の命、決断が下せず、決断しないという決断をしました。結果オーライであることは間違いないですが、当事者の煩悶はそんなものでは無かったと思います。

さて、右近を悩ませた村重が去り、信長が本能寺の変で没すると山崎の戦いでは、秀吉側につき先鋒を務め明智光秀を敗走させ、清須会議でその功が認められて加増されます。続く賤ケ岳の戦いでは、またもや先陣の岩崎山の砦を守るも、佐久間盛政の猛攻を受けましたが、撤退して一命を保ちます。この時になにかと因縁のある中川清秀は討ち死にしています。また、撤退したことで柴田勝家との内通を疑われたようです。その後、小牧・長久手の戦い、四国征伐に秀吉軍として参戦しています。

寝返りした武将は、先鋒・先陣へ配置する。戦国時代の習いでしょう。その結果、“悪魔のささやき”の中川清秀は滅び、“天使のささやき”の高山右近は生き残りました。右近はすごくいい奴だったのでしょう。多くの大名が彼の影響でキリシタンになったようです。たとえば、蒲生氏郷・黒田考高などです。ガラシャの夫:細川忠興・前田利家も洗礼を受けてキリシタンにはなることはありませんでしたが、右近の影響を受けてキリシタンに対して好意的であったようです。

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。しかし、まもなく伴天連追放令が秀吉によって施行され、キリシタン大名には苦しい状況となります。多くの大名はウソでも信仰を捨てる道を選びましたが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選びました。その後しばらくは信仰を捨てたとされる小西行長に庇護されて小豆島肥後国などに住み、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5千石の扶持を受けて暮らしました。

ここも高山右近が後の世に、最もかっこよく生き残った武将と云われる所以です。黒田考高・小西行長等の多くの大名がしたように、ウソでも信仰を捨てて大名として残ればいいものを、バカ正直に大名を捨てる道を選びました。この時に右近は懊悩しなかったのではと思います。信仰を優先することは当たり前のことであり、大名という地位には未練がなかったと思います。この馬鹿正直さに感心した秀吉は、他の大名が右近の庇護を見て見ぬふりをしたように思います。

さて、天下人が秀吉のうちは見て見ぬふりで済みましたが、家康となるそれでは済まなくなりました。慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去しました。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン総督ファン・デ・シルバらから大歓迎を受けましたが、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取りました。享年63。マニラ到着からわずか40日のことでした。

参照 高山右近-Wikipedia

2019年1月14日 有岡城址

 

 有岡城は「有岡城の戦い」の舞台となったお城です。城主は荒木村重です。戦国時代、最も無様に生き残り、天寿をまっとうした武将です。高槻城の高山右近とは対照的だと私は思うのですが、どうですか?

 村重の人生をひも解くと、裏切りの連続だったようです。まず摂津池田城主:池田勝正に仕え一族衆までになったのに、三好三人衆の調略に乗り三好家に寝返り、池田家を乗っ取り、三好家から織田信長へ移り茨木城主になり、さらに伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主になり、信長に摂津一国を任されるまでになります。以後、摂津有馬氏を滅びし、伊丹城を有岡城に改称して信長に従い、越前一向一揆討伐、石山合戦、紀州征伐など各地を転戦し、武功を上げ、従五位下摂津守に任じられています。

 そして、理由は定かではありませんが、帰属していた信長を裏切り、1578年7月から1579年10月にかけて行われた「有岡城の戦い」が勃発します。何故、村重が三木合戦から戦線離脱をして信長に対し謀反を起こしたのかはいろいろな説があります。ただ、この時に謀反に驚いた信長が明智光秀、松井友閑、万里重元を有岡城に派遣して説得し、更に高山右近の説得により、一旦は聞き入れ、息子と共に安土に向かったのですが、茨城城の中川清秀に引き留められ、有岡城へ戻り、信長に逆意を明らかにしました。

ここら辺の村重の行動は優柔不断・よく漫画などで出てくる“天使のささやき”と“悪魔のささやき”を思い浮かべます。一旦は“天使のささやき”高山右近の説得を受け入れ安土に行こうとするのですが、途中寄った茨城城で“悪魔のささやき”中川清秀の引き留めの言葉も強烈だったのでしょう。信長は一度裏切った部下を許さないと考え直します。このときの配下だった“天使と悪魔”高山右近と中川清秀は両方とも村重を裏切り信長に帰服します。

「有岡城の戦い」は天正6年(1578年)7月に始まり、翌7年11月に戦闘が終結しました。

結局、村重は籠城した有岡城を捨て尼崎城の単身移り、尼崎城にきた部下の説得も受け入れず有岡城の女房衆122人が見殺しにし、更に村重一族と重臣の家族36人が京市中引き回しの上、六条河原で斬首されるという結果を引き起こしました。信長の村重に対する憎悪はすさまじく、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていきました。

しかし、村重とその息子・村次は尼崎城から花隈城に移り抵抗を続け、天正8年(1580年)7月まで花隈城で戦い、足掛け2年間の戦いの末、最終的には毛利に亡命して生き残りました。

その後の村重は、信長が天正10年(1580年)6月本能寺の変で横死したのち、道糞(どうふん)と名を改めて堺に居を移し、秀吉のお伽衆として出仕しました。秀吉は道薫と名を改めさせ茶人として遇しましたが、自分を裏切った高山右近には恨みを持っていたのでしょう。小西行長や高山右近等のキリシタンを讒訴して失敗、秀吉の勘気受け、その後、出家して天正14年(1586年)5月に堺にて死去。享年52歳。

人生は一度きりです。命はひとつしかありません。戦国時代の武将は籠城の上、部下・家族の助命と引き換えに切腹する名誉の戦死より、逃げ延びて無様に生き残る選択をした武将の方が多いのではと思います。それが歴史に刻まれるかどうかはわかりませんが・・・。

参照 荒木村重-Wikipedia

2019年1月14日 尼崎城址

 

 今回の摂津のお城巡りのテーマは戦国時代の武将:荒木村重と高山右近です。
戦国時代、最も無様に生き残った武将:荒木村重。最もかっこよく生き残った武将:高山右近。

まずは、尼崎城です。2019年3月29日に模擬天守が完成です。ただ、村重の時代の尼崎古城は大物城と呼ばれ、江戸時代の尼崎城から東北の位置にあったようです。

 1577年、荒木村重の長男・荒木村次が尼崎(古)城主となり、「有岡城の戦い」の荒木方の要地のひとつになりました。来年の大河の主人公明智光秀の子供は三男四女説と六男七女(二人は養女)があるようですが、長女が村重の長男の荒木村次に嫁いでいます。三女は有名な細川ガラシャです。明智光秀の長女は村重謀反の時に離縁されて光秀の元に戻ったあと明智家家臣・明智秀光に嫁ぎ山崎の合戦に敗れた後、坂本城で自害したようです。これ確か小説で読んだ記憶があります。

荒木村重、村次親子は、尼崎城と花隈城を譲れば妻子を助けるという約束を取り付けた部下の説得を受け入れず、花隈城に移り抗戦を続け、最後は毛利を頼って逃亡しました。村重は、家臣と妻子の命を犠牲にして生き残ったという最も無様な武将として生き残りました。信長の死後、茶人として堺に戻り、秀吉のお伽衆になりました。

ところで、尼崎城は江戸時代、1617年戸田氏鉄が5万石で入封して築城したものです。戸田氏の後は青山氏四代、桜井松平氏七代の藩主が納めました。桜井松平家とは松平氏の庶流。十八松平のひとつで今の安城市の桜井周辺を領していました。そういえば城の近くに桜井神社がありましたが、いわれは桜井松平氏かもしれません。

 再建尼崎城は、ほぼ外観が完成していました。お城の天守は美しいと思います。特記すべきは「創業の地に恩返ししたい」と私財12億円を市に寄付された方がいたこと、市民の寄付2億円集まって平成最後のお城が築城されました。

 名古屋城天守の木造再建もそうですが、お城の再建にはいろいろな意見があります。肯定的な意見も多いですが、否定的な意見も無視できません。確かに実質的に意味のないお城に自治体から費用支出するより、福祉や子育てにその予算を使うべきだという意見が正しいと思います。その点、尼崎城はひとりの多額の寄付で再建したため、そういう議論をする必要なく市民のシンボルができたことは素晴らしいと思います。本当は、多額の税金を使っても後世の人たちに誇れるものが建設できればいいと思うのですが・・・

2018年10月25日 二条城

 

 二条城は城好き・歴史好きな人には見逃せないお城です。

京都は千年の都です。様々な歴史の舞台でしたが、江戸時代末期の中心はこの二条城だったかもしれません。

 この二条城から南へ足を延ばし、信長最後の地:本能寺跡にも寄ってみました。この地には現在京都市の公共建物が建っており、現在の本能寺は1582年本能寺の変で焼失後に、1592年に秀吉が元の地に再建することを許さず現在地に建立された歴史があります。特筆すべきことは、本能寺跡に歴女が来ていたということです。世の中に歴史好きな女の子がいることは聞いていましたが、本能寺跡まで来るのはよほどの歴史好きだと思います。

 二条城は、二の丸御殿の内部を公開しています。幕末の大政奉還を発表した歴史的な場所の「大広間」、素晴らしい障壁画が3000面以上あります。残念だったのは、室内の写真撮影が許されていなかったことです。昔はフラッシュにより建物が傷むと考えられていたために禁止されてそのままになっていると思いますが、今はスマホが主流です。名古屋城本丸御殿でも箱館奉行所でも室内の撮影が許されていました。技術は進歩しているのにお役所の考えは昔のままのようです。

 二条城二の丸御殿の感想は名古屋城本丸御殿との違いです。古い建物と新築の建物との差はありますが、それ以上に将軍の住まいとしての二条城二の丸御殿と迎賓館としての名古屋城本丸御殿と比較してしまいます。やはり将軍を迎えるための迎賓館としての名古屋城本丸御殿の豪華さがより強く感じたのは私だけではないと思いました。部屋の格式を観るとき私は特に天井を観ます。両方とも将軍の座られる場所は「折上二重格天井(おりあげにじゅうごうしてんじょう)」ですが、名古屋城本丸御殿の方が、より豪華に感じられました。でも、二条城には歴史が感じるという良さがあります。

 現在、京都市が二条城を整備中です。正面玄関である東側空間の再整備に取り組んでいます。名古屋城と違い戦災で焼けなかったのは大きな財産です。頑張ってこの財産を生かして後世に残してもらいたいと思います。

お城好きにとって、先の大戦で明治維新から70年以上維持してきた多くの大切な財産が焼失したのは非常に残念です。その点、二条城は焼失を免れて今も幕末の時の姿を今に伝えています。また、再建の仕方も天守閣を再建せず、江戸時代の姿を伝えるのも良いと思います。お城は戦の為に作ったものですが、私たちの先祖が誇りに思ってきたものでもあります。今後も各地で身の丈に合った継続可能な再建・整備をしていって欲しいと思います。

2018年10月17日和歌山城

 

 紀の国:和歌山城へは、大阪で仕事をしているうちに是非訪れたいと思っていました。

紀伊の国でまず思い出すのは通称:雑賀孫市です。司馬遼太郎の小説『尻啖え孫市』(しりくらえまごいち)に、戦国時代、本願寺勢力として信長と対抗した人物として描かれています。作中の孫市は、司馬によると「当時の雑賀者の性格を一人に集約すれば、おそらくこうだっただろうということで創った人物像」のようです。

紀の国は、南海道に属していますが、畿内に隣接する地域ですので、畿内を治める人物にとっては重要な後背地なのでしょう。そのため、秀吉は最も信頼できる弟の秀長に任せ和歌山城を築城し、家康は自分の十男:頼宜を和歌山城主として御三家のひとつ紀州徳川家を創設しました。

和歌山城は、1958(昭和33)年に鉄筋コンクリートで再建された外観復元城です。連立式層塔型3重3層という少し変わった形式の建物です。最初に豊臣秀長が1585年に築城した城は違う形だったようで、関ケ原の合戦後に浅野幸長が築城した城を徳川頼宜が拡張したようです。ここも名古屋城と同じように戦前は国宝に指定されていましたが、和歌山大空襲により焼失してしまいました。本当に残念です。

和歌山城で思い浮かぶのは、まず8代将軍徳川吉宗です。紀伊徳川家は御三家ですが、筆頭は尾張徳川家です。それなのに紀伊徳川家から将軍が生まれたのは幸運か陰謀か。歴史的事実として御三家筆頭の大納言家の尾張徳川家からは江戸幕府の将軍は出ていません。

家康・秀忠・家光・家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗・家重・家治・家斉・家慶・家定・家茂・慶喜 江戸時代の15人の将軍のうち家がついていない将軍は秀忠・綱吉・吉宗・慶喜の4年です。偏諱:将軍の諱の一字をもらったのが4人いたということです。8代将軍:吉宗は5代将軍の綱吉から、その5代将軍:綱吉は4代目の家綱から、諱の一字を貰いました。吉宗以降の将軍は、15代の慶喜を覗いて全て紀州系、家康の十男:頼宜-光貞の子孫が将軍職に就くことになりました。結局、家康の九男:義直の子孫は一度も将軍になることができなったのは、愛知県出身者としては少し残念な気がします。

2018年8月19日小田原城

 夏の家族旅行のついでに、小田原城に来ました。ついではいけないとも思いますが、息子以外の家族、女房・娘・他の方は残念ながらお城には興味がありません。今は歴女が闊歩している世の中なのになかなか一緒に城めぐりしてくれるお友達はいません。

お城への興味で思うことは、ある程度歴史がわかっていないとお城へ登城しても面白くありません。多少の知識があると、興味があることについてはそれが積みあがっていきます。お城に登城するのも知識が積みあがっていくのが面白いと思います。

さあ、小田原城と言えばなんでしょうか。

やはり、後北条5代の本拠地がまず思い浮かぶでしょう。戦国時代の関東の覇者になるのですが、何よりこの小田原城は、戦国の大スター:上杉謙信、武田信玄に攻撃を受けて撃退した歴史を持っています。残念ながら、秀吉に後北条家は滅ぼされてしまいますが、20万人以上と言われる軍勢に囲まれている光景・・・。もしも、タイムマシンがあって何が見たいかと言えば、この小田原城の籠城戦観たいと思いませんか?

相模湾には、遠く九州勢或いは四国勢の長曾我部等が船を浮かべています。攻め込む、秀吉勢は徳川家康、前田利家、等オールスターです。旗印を見てあそこの陣には誰がいると見てみたいと思います。まあ、実際に当事者ではないのでそう言っているだけで、合戦というのは殺し合いですから、タイムマシンでいったら正視できないかもしれません。

結局、最終的には家康の天下になり、小田原は大久保忠隣に預けられます。小田原は江戸の喉元なのでよほど信頼を寄せる家臣が城主になる城でしたが、何故か大久保忠隣は改易になってしまします。大久保長安の事件に連座したと言われていますが、彦根藩預かりになってそこで没していますが、子孫はご赦免になり、再び小田原城主に返り咲いています。江戸時代でも珍しい出来事かと思います。

三河大久保一族は、まだ家康が三河統一戦を戦っているときに、よく出てきます。有名なのは大久保忠世、忠佐の兄弟です。常に家康の手足となって合戦で手柄を立てています。しかし、徳川四天王と言われた、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政、井伊直政の4人には差をつけられていたようです。

それに大久保忠隣の改易です。ですから、三河物語を著わした大久保彦左衛門の嘆きはそこにあったのだと思います。でも、大久保彦左衛門は嘆いて三河物語を著わしたことにより、四天王より有名になり後世に名を残しました。一心太助と大久保彦左衛門のお話はみんなが知っています。何が後世に名を残すかわかりませんね。

今回の小田原城に来て初めての発見は大正天皇の御用邸があったということです。残念ながら関東大震災で大破してしまいましたが、やはり小田原は江戸・東京の喉元だなと思いました。

お城へ登城するのは面白いです。

2018年6月11日 名古屋城本丸御殿

 

 6月11日は月曜日でした。本丸御殿の完成披露は6月8日の金曜日でした。ですから、この日の前日、前々日の土日は人込みと取材陣等超満員でなかなか自由に観ることができない状態のようでした。この日は前日の三分の一の人出だと係りの方はおしゃっていました。

本丸御殿を観る際に、函館の奉行所を観ることをお勧めします。私は今年の4月に函館五稜郭へ行って、箱館奉行所を観てきました。あちらも新しく立派な建物ですが、やはり、一介の奉行所です。本丸御殿と比べては気の毒です。観て欲しいのは、天井です。本丸御殿には、美しい天井が沢山あります。確かに戦災時に一時的に避難されていたために生き残った障壁画の複製画は素晴らしいものですが、『天井を見ればわかる、部屋の格式』箱館奉行所の天井はほとんどが普通の格天井(ごうてんじょう)です。部屋のランク付けはほとんどなかったのでしょう。名古屋城本丸御殿の対面所の上段の間は「黒漆二重折上げ小組格天井」に。升目を作る部材である格縁(ごうぶち)の中に細かい格子を組み入れた小組格天井をさらに高く折り上げ、漆塗りが施されています。

是非とも、各部屋の天井の違いをみて部屋の格式を想像してみてください。現在の日本の住宅でも広く使われている「竿縁天井(さおぶちてんじょう)」から始まり、45~90センチ程度の升目に組まれた「格天井(ごうてんじょう)」、格天井の中央部分を周辺よりも高く仕上げる「折上げ小組格天井」、さらにもう一段上げた「二重折上げ小組格天井」といった具合に格式が上昇。そこにどんどん漆や金具などの細工や蒔絵などが施され、もうこれ以上ない、というほどの豪華な意匠の天井を目にしたときには、本丸御殿の一番奥の上洛殿にたどり着いていることでしょう。

わからなくてもいいから、天井を観に来てください!建築を学んだ人でもわからないのだからわからないのは当たり前です。

名古屋城の本丸御殿は1615年に家康九男の義直が春姫を迎えるに当たって作った御殿です。家康は大坂夏の陣へ向かう際に、義直と春姫の婚儀をここ「対面所・下御前所」で行っています。しかも1620年には、藩主:義直は二の丸御殿に移居し、本丸御殿は2代将軍秀忠(1626年)・3代将軍家光(1634年)が上洛の際の宿泊施設として整備されるのです。将軍の宿舎ですから豪華なのは当たり前です。

そして、その本丸御殿と天守が江戸時代から明治・大正・昭和と生き残ったのです。

先日、大阪城は3度も落城している不運の城と書きましたが、それに比べると名古屋城は幸運の城でした。何故?「でした。」と過去形になるのは、先の戦争で1945年5月14日8時20分ごろ、アメリカ軍のB-29が投下した焼夷弾により大小天守、本丸御殿等が焼失してしまったからです。

名古屋城天守は、徳川家康が全国諸大名を動員した「天下普請」として1612年に天守が完成してから1945年に焼け落ちるまで約333年無事に生き残りました。これは、江戸時代初期において名古屋城(1612年)、大坂城(1626年)、江戸城(1638年)3つの巨大天守のうち江戸城は1657年の明暦の大火により焼け落ち、それから再建されることはありませんでした。また、大坂城も1665年に落雷によって消失し、以後天守を持たない城になりました。名古屋城天守の場合は奇跡と言っていいことかもしれません。

1959年に再建天守閣がSRC(鉄骨鉄筋コンクリート造)により再建され、今年(2018年)5月まで一般公開されていましたが、2019年から取り壊され、木造復元される予定です。木造復元には批判もあります。石垣の保全・修復計画等で文化庁の認可が受けられず、計画通りに2022年12月の完成は難しいかもしれませんが、1945年まで建っていた木造天守の復元です。写真も実測図もあるのは名古屋城だけです。大坂城、江戸城は、復元しようにも、写真も実測図もありません。震災で壊れた熊本城天守の復元が話題になっていますが、復元されるのは1960年にRC造で外観復元されたものです。写真はありますが実測図は無いので木造復元はできません。

名古屋城天守の木造復元には、名古屋市民にも冷めた見方があります。税金の無駄使いだという意見もあります。お城に興味のない人にはそうかもしれません。私は定年退職後の趣味としていろいろな城跡に行きます。石碑だけの城跡もあれば、立派な城を模した博物館になっているお城もあります。それぞれの自治体が工夫を凝らして保全しています。私がいいなぁと思った城跡は愛知県西尾市の東条城です。木柵と見張り台だけのお城です。歴史通りでは無いかもしれませんが、なんとなく歴史を感じる城跡でした。名古屋城の天守の木造復元は、ある意味、歴史の復元です。将来、子孫に残せる立派な文化遺産に成り得ると思います。是非も、うまく進めて欲しいと思います。

2018年6月11日名古屋城本丸御殿

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